海外ではオリンピックなどよりも盛り上がると言われるサッカーのワールドカップ(W杯)ですが、今年の6月から行われる本番(ワールドカップ2018 ロシア大会)まであと2か月というタイミングで代表監督とであるヴァヒド・ハリルホジッチ(Vahid Halilhodžić)の解任が発表されました。
僕も”なぜ、このタイミング?”と感じてはしまいますし、契約解除の違約金やプロモーション費用も含めると2億円にものぼる費用が発生するそうです。
解任についての詳細はサッカー協会の一方的な発表ではいまいち信用できませんが、当のハリルホジッチさんも”日本に来てすべてをぶちまけてやる”と息巻いているそうで、いずれワイドショーなどでも格好のネタになりそうな気はしますね。
今回は歴代のサッカー日本代表監督にどんな人がいたのか振り返ってみたいと思います。
(画像引用:「日本サッカー協会」公式ページより)
Contents
昔の人は知らない人が多いのでサッカーがプロ化されたあたりに代表監督を務めたオフトさんから振り返ってみたいと思います。
ハンス・オフト
オランダ人 1992年5月 – 1993年10月
日本のサッカーがアマチュアからプロへ移行していた時に就任した黎明期の監督になり、僕が覚えている一番古い監督になりますね。
当時の代表は読売ヴェルディや横浜マリノスの選手がチームの大半をつとめており、カズやラモス瑠偉、柱谷といった面々を率いていたのが彼になります。
それまでの監督はほとんど日本人だったはずですから、オランダ人の監督が代表監督に就任するのも珍しくワクワクした覚えがあります。
確か当時のキーワードは「アイコンタクト」や「コーチング」など今となっては基本的なことばかりだったようで、いかに日本のサッカーが遅れていたかが分かります。
この当時は韓国代表との相性もかなり悪かったですね。
最後はあのW杯最終予選”ドーハの悲劇”で幕を下ろします。
パウロ・ロベルト・ファルカン
ブラジル人 1994年5月 – 1994年10月
オフトの後を継いだのはブラジル人ファルカンだったわけですが、サッカーファンなら誰でも知っているブラジルの”黄金のカルテット”の一人であるファルカン(他の3人はジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ)が就任したのには当時ビックリした覚えがあります。
ジーコや鹿島とのつながりもありますが、日本に来るブラジル人はたまに超大物来てるものの、世間的にそれほど話題にならないのは不思議ですね。
ヨーロッパ的な指導から自由なブラジルサッカーに移行したことによる、選手や協会関係者のとまどいは大きかったようですが、わずか半年での解任はさすがに早かったですね。
今調べなおしてみるとフランスに1対4と大敗したのとライバルの韓国に2対3で惜敗したのが致命的だったようですが、当時のレベルなんかを考えると力通りという感じもしてちょっとかわいそうでしたね。
加茂周
日本人 1995年1月 – 1997年10月
コミュニケーション不足などを指摘されてファルカンの代わりに代表監督に就任したのが知性派としても知られ、確かあまり強くなかった横浜フリューゲルスで結果を出していた加茂さんでした。
何と言っても加茂さんの代名詞は「ゾーンプレス」でしたが、当時の世界最強チームであるイタリアのACミランでサッキ監督が用いていたことが有名だった戦術を代表に持ち込もうとしていましたね。
目に見えるような素晴らしい結果は残せませんでしたが、このころから試合で大崩れすることが少なくなったような気がします。
そんなに失敗していたイメージはなかったのですが、本番まであと半年というところで解任されてしまいます。
岡田武史
日本人 1997年10月 – 1998年6月
加茂監督の解任を受けて新しい監督に就任したのが当時代表チームのヘッドコーチをしていた”岡ちゃん”になります。
80年代に日本代表にも選ばれたこともあるDFだったようですが、当時はアマチュアチームばかりだった日本のサッカー(扱いとしては今のラグビーみたいな感じでした)なのでさすがの僕も知りませんでしたね。あの頃は読売クラブ一強でした。
岡田さんが就任した時は”なんだこの海外映画に出てくるような典型的な日本人は?”と思った記憶がありますが、その後代表はプレーオフに残り見事初のワールドカップ出場(フランス大会)を成し遂げます。
正直加茂さんの遺産だったような気もしなくはないのですが、何と言っても第一期岡田政権で有名なのはカズと北沢を最終メンバーから外したところですよね。
代わりに18歳の小野伸二や呂比須ワグナー、城彰二が台頭しますが予選リーグで敗退します。
この時はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと対戦しましたが、善戦してはいたものの、守備はギリギリ身体を張って止めていたものの、あまり得点の臭いがせずに事故待ちという感じでしたね。
フィリップ・トルシエ
フランス人 1998年10月 – 2002年6月
初のワールドカップであるフランス大会を経験した日本でしたが、次の開催地は地元日本(日韓共同開催)だったので結果が求められます。
そこで白羽の矢がったのが、フランスリーグやアフリカの代表チームで結果を残していたフィリップ・トルシエでした。
どうも調べなおしてみると、当時名古屋グランパスエイトを率いていた同じフランス人である世界的名将ベンゲルの推薦によるものだったらしいんですが、今考えるとベンゲルにやってもらいたかったですね(笑)。
何と言っても彼の代名詞は「フラットスリー」と呼ばれるスリーバックを活かしたサイドアタックでしたが、フォーバックからの変更という意味でも革新的ではありましたね。
直前で守備力に欠ける中村俊輔をはずした非常采配も驚きでしたが、ガチガチに自分の戦術に選手をはめたがるトルシエだとしょうがなかったのかもしれませんね。
当時は中田英寿がチームの王様としてすでに君臨しており、戦術ありきのチームでした。
結果的にチームはグループリーグを突破しワールドカップベスト8という素晴らしい成績を残します。
この頃のチームは攻守のバランスが良く、ヨーロッパの中堅チームなら倒してしまう力がありましたね。
規律を重視するので良くも悪くも日本向きのチームだったような気がします。
ジーコ
ブラジル人 2002年7月 – 2006年6月
トルシエの後任となってドイツ大会を目指すためにチームを引き受けたのは日本とも縁の深い”神様”ジーコとなります。
今考えるとヨーロッパ人監督のあとにまたブラジル人をもってくるなどサッカー協会のビジョンのなさが見て取れますが、この後就任するオシムが唱える”日本化”を一番理解していないのはもしかして一番上なのかもしれませんね。
ジーコは自身がブラジル時代に形成していた”黄金のカルテット”を日本代表でも実現させ、中盤に、中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一を並べ、日本版黄金のカルテットを誕生させました。
当時海外で活躍していた四人を並べるというファンの期待にそった器用でしたが、確かこの四人が同時出場したのってそんなになかったはずですが、こういった遊び心を持たせた意味でも独特の監督でした。
トルシエと違い選手としての自主性にまかせた放任型の監督だったようですが、持ち味は何と言っても攻撃力でしたね。
本選こそオーストラリアに立て続けに失点するなど悪夢を見せられ結果は出せませんでしたが、直前までは開催国であり当時も世界のトップチームであったドイツを押しまくるなどチームは相当高いクオリティを示していたような記憶がありますね。
イビチャ・オシム
ボスニア・ヘルツェゴビナ(ユーゴスラビア)人 2006年8月 – 2007年11月
ジーコの頃からかつて日本の壁であった韓国も越えられる壁となった感じがして、世界との距離もぐっと近づいたような感じがしましたが、その先を期待して招聘されていたのが当時ジェフユナイテッド市原を率いていた現役監督のイビチャ・オシムとなります。
協会も現役の監督を半ば強引に引き抜くという荒業に出たわけですが、当時も選手層には決して恵まれていなかったジェフを率いて目まぐるしい結果を残していた知将ですが、僕も当時のジェフのサッカーは理詰めで面白かったのでオシム就任にはかなりワクワクしました。
彼の面白いところはご存知のように常に本質を見据えている所で、ジェフなんかでは時にはツーバックに変更したり、ゾーンプレス全盛時代にマンマークでガッツリ引っ付いておいて球を奪えばほぼ全員が波のように上がっていき全員攻撃をするなど他では見ないサッカーをみせていたのが非常に印象的でした。
”サッカーの日本化”や”考えて走るサッカー”、”ボールを走らせる”など様々なヒントやオシム語録などを残してくれた監督ですが、残念ながら脳梗塞で監督を辞することになってしまいます。
当時のチームはアジア相手にコロッと負けることもありましたが、彼のチームは何となくやりたいことが明確なので不思議と”監督変えろ!”とはなりませんでしたね。
本番に向けて色々な手を残していた雰囲気がありました。
岡田武史
日本人 2008年1月 – 2010年6月
二度目の就任となった岡田さんですが、オシムの後を引き継ぐなど完全に代打屋ですね。
実はあまり日本のチームであまり結果は残せてはいないのですが、代表のようにある程度手駒が揃うと力を発揮する監督なのかもしれませんね。
そういう意味では駒がない中でもやりくりしていたオシムの凄さを感じますが、この第二期岡田政権の特徴は何と言っても司令塔本田のセンターフォワード器用ですね。
南アフリカワールドカップ直前になって手詰まり感が漂う中、本番でいきなりこの起用を見せるわけですが見事に結果を残しましたね。
ジーコ時代は完全にサッカー好きしか知らなかった遠藤もこのあたりからお茶の間にも知られるようになりました。
このチームは結果的には中沢、闘莉王とう二枚看板あってこそのチームだった気もしますね。
アルベルト・ザッケローニ
イタリア人 2010年10月 – 2014年6月
岡田さんを挟んだとは言え、ヨーロッパ人からヨーロッパ人の監督就任は初めてとなります。
イタリアのセリアAでも監督して活躍していた知将ですが、彼の元で目指したのは「ポゼションサッカー」ですね。
このポゼションサッカーがオシムの唱えていたサッカー日本化ということで白羽の矢が立てられたのでしょう。
このチームでは本田や長友がチームの中心となり今まで以上のポゼションサッカーを見せはじめましたね。
実際に海外の強豪チーム相手でも5割近いボール保持率を誇る試合などもあったり、直前でイタリアをあたふたさせるなど、ジーコの時と同じぐらい期待感がありましたが、同じように本番ではボコボコにされてしまいました。
守備についてはイタリア人監督らしい細かい決まり事があったそうですが、歴代の代表の中でも最強の攻撃力を誇ったのはこのチームで間違いないでしょう。
ただ、やっぱり南米チームとの相性の悪さは解決しておくべきでしたね。
ハビエル・アギーレ
メキシコ人 2014年8月 – 2015年2月
スペインで結果を残していたことや、メキシコ代表の細かいパスサッカーを日本に持ち込みポゼションサッカーをさらなる高見に行かせようとして就任したアギーレですが、当の本人の八百長疑惑により僅か半年で解任されてしまいます。
少しの間でしたが、面白いサッカーをしようとしていた感じがあっただけに残念でした。
ヴァヒド・ハリルホジッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ(ユーゴスラビア)人 2015年3月 – 2018年4月
現役時代はフランスで活躍した名選手であり、元ユーゴスラビア代表として当然オシムとの親交があるようです。
コートジボワールやアルジェリア代表監督として結果を残していたために数多くの有力監督の中から選ばれましたが、コンセプトはこれまでのポゼションサッカーから一転して縦に速いカウンターサッカー。
まったく真逆になってしまったわけですが、協会は何がやりたかったんでしょうか。
結局ご存知のように残り二か月の段階で解任されてしまったわけですが、どうも情報によると某有力選手数名がサッカー協会の会長に直接”恐怖政治を敷いているので解任したほうがいい”というメールが引き金になったという情報もあるようで、選手の人心掌握が出来ていなかったようです。
アフリカで成功したやり方を日本に持ち込んだだけなのかもしれませんが、もしかしたら日本人のメンタリティを理解していなかったのかもしれませんね。
日本を満喫していたザッケローニに対して、仕事が終わるととっととヨーロッパに帰っていたハリルではこのあたりに差があったのかもしれません。
西野朗
日本人 2018年4月 –
残り二か月の段階で代表監督に就任したのは西野さんですが、代表の強化部門を担当していたようで、時間がないのでこの人になったようですね。
西野さんと言えばなんといってもブラジルを唯一破ったオリンピックの”マイアミの奇跡”の時の監督として有名ですが、その時はゴリゴリの亀サッカー(笑)で、まぐれ当たりの勝利でしたが、リアルタイムで見ていたのでよく覚えています。
当時はチームの中心選手であった前園や中田英寿あたりから相当の反発があったようですが、何と言ってもこの実績をこえる人がいまだにいないので、文句は言えませんね。
かたや西野さんはガンバ大阪で攻撃サッカーを展開していたことも有名で、選手に応じて色々なオプションを見せてくれる監督ですね。
少ない時間の中でどういったサッカーを目指すのかは疑問ですが、個人的には1対0で勝つよりも3点取られたら4点取るような面白いサッカーを見せてほしいと思います。
まとめ
以上近年の代表監督を振り返ってみましたが、文中でも書いたように目立つのは協会の監督選定に対する一貫性のなさですよね。
黎明期はサッカーの基本を叩きこむ人選でしかたなかったにしてもポゼションをするのかカウンターサッカーをするのかそれぐらいはコンセプトとして継続してもらいたい気はします。
振り返るとやっぱりオシムさんに監督をずっとやってもらいたかったですね。