新五千円札に採用された「津田梅子」その素顔に迫る

「樋口一葉」に引き続き女性「津田梅子」を採用

新五千円札

前回の記事では2024年から採用される新一万円札に採用された渋沢栄一(しぶさわえいいち:実業家)について調べてみました。(「渋沢栄一」とは?新一万円札に描かれた彼は何をした人物なのか調べてみた

正直なところ、渋沢栄一に関しては最近クイズ番組も多いので、何となく名前を聞く人だなという程度の知識でした。比較的、歴史やクイズが得意な僕でも”実際に何をした人物?”というのは僕もよく知らない人物だったんですが、世間の認知度はどのぐらいなんでしょうか。

そして新五千円札に採用されたのが今回記事に取り上げる津田梅子(つだうめこ)ですが、現行の五千円札に採用されている樋口一葉(ひぐちいちよう)に続いて女性の採用です。

人権団体やフェミニストのみなさんに気を使って、三つのお札のうち一つは女性にしたのではないかというのは下衆の勘繰りかもしれませんが、こういったところに気を使わなければいけなくなったのであれば非常に窮屈な世の中になったなという気がします。

要は日本の発展に貢献した偉人・聖人であれば、男性三人でも構わないし、女性三人でも構わないと思うんですが、今後は女性ありきで採用するというのはプロセスとしてはナンセンスだと思いますね。

さて、少し話が横道に逸れてしまいましたが、渋沢栄一に比べると津田梅子という人物に関しては”何をした人物か?”というのは何となく想像ついたり知っている人も多いのではないのでしょうか。

明治初期に活躍した女性というのは多くありませんし、名字の”津田”で大体の想像はつくとおり彼女は女子大学の中でも超名門である現在の津田塾大学の創始者というのはよく知られた話ですよね。

ただ、この津田梅子がどんな人生を辿り、津田塾を創立するにあたったのかは当然学校では学びませんので、個人的な興味もあり、この機会に改めて調べなおしてみるとにしました。

(画像引用:財務省および津田塾大学より。またこの記事の人物に関しては敬称を略して表記します)

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「津田梅子」の経歴

津田梅子(津田塾創立当時)(写真は津田塾の前身である女子英学塾創立時のもの:津田塾大学HPより)

1864年(0歳) 江戸に生まれる

父は幕臣津田仙(つだ せん)、母初子の次女として江戸で生まれていますが、最初につけられた名前は”うめ”だったようです。

梅子が誕生した当時、父である津田仙は外国奉行として通訳をしていたようで、1867年には福沢諭吉などとともにアメリカに渡っています。

ここで福沢諭吉の名前が出てくるあたり、すでにそこそこの家の出であり、人脈のようなものや運命的なものを感じますね。このあたりは渋沢栄一と似ています。

ただ明治維新が起こると仙は幕臣なのでその職を失い、ホテルなどで働くようになったようです。

1871年(6歳) 岩倉使節団に随行して渡米・留学

1871年(明治4年)12月に岩倉具視を正使としてアメリカやヨーロッパへ派遣された通称岩倉具視使節団ですが、政府高官の他に留学生も随行しています。

すでに女子教育の必要性も考えられていたようで、その募集に対し父の仙が娘の梅子を応募し、五人いた女子留学生の一人に選ばれています。梅子はその中でも最年少の6歳だったようです(親は同行していないようです)が、いくら外国かぶれ?の父とは言っても6歳の娘を単身海外に送り込むとは大分無茶をしますね(笑)。

この五名はアメリカのワシントンにホームステイし留学を開始したようですが、うち二名はすぐにホームシックで帰国しています。

ただこのときアメリカに残った山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)がのちの女子英学塾(津田塾)設立に協力してくれたようです。

彼女たちは1882年(明治15年)の7月まで留学し、英語の他ラテン語やフランス語などを学んだほか、ピアノや絵画なども学び、キリスト教にも触れ洗礼を受けています。

梅子にとっては幼少期の6歳からそれより長い十年以上も日本に帰国せずアメリカに長期滞在しているのでかなりアメリカ生活に影響を受けたことが想像できますね。

もう頭の中は完全にアメリカ人でしょう。

1882年(17歳) 日本へ帰国し英語教師になる

日本に帰国した梅子ですが、すっかりアメリカナイズされていたようで、日本にはかなり馴染めなかったようです。

そりゃあ開国してから十五年しか経っておらず日本しか知らない人たちと頭の中はすっかりアメリカ人の彼女では話が合いませんよね。(ちなみに、帰国後は父親の仙とも折り合いが悪く少し微妙な関係だったようです)

他の留学仲間の二人はのちに結婚したようですが、彼女は結局古い頭の日本の男子が合わなかったのか、敬虔なクリスチャンだったのか分からないものの、生涯独身を貫いています。

帰国後は伊藤博文などの推薦などにより私塾の桃夭女塾(のちの実践女子大学)や華族女学院(学習院の女子部)で英語教師をしていたようです。

ここでも伊藤博文という大物の名前がサラッと出てきましたね(笑)。

1889年(24歳) 再びアメリカ留学

日本で英語を教えていた梅子ですが、日本の上流階級の気風が馴染めなかったようです。

そんなこともあり、アメリカ留学時代の友人の勧めで1889年7月にアメリカの大学に留学しています。

この留学では生物学を専攻して研究していたようですが、その間に日本の女子学生の留学のため奨学金制度を設立しており、この時から後進の育成のための道を作ろうとしています。

留学は三年間(当初の予定では二年間)で終え、大学には惜しまれつつも帰国します。

1900年(35歳) 女子英学塾(津田塾)設立

1892年8月に帰国した梅子ですが、帰国後は元々働いていた華族女学院で英語を教えていたようですが、当時は雲の上の存在であったと思われる海外で研究していたという箔もあったのか、自宅も含めて様々なところで教鞭をとっていたようです。

二度にわたる留学経験もありますので、女子の教育界にとってはおそらくかなり名前の知られた存在になっていたことでしょう(英語なんかはバリバリのネイティブだったでしょうしね・・・)。

そして帰国後から八年、父の仙やアメリカ留学仲間であった大山捨松と瓜生繁子、アメリカ留学時代の友人アリス・ベーコン、翻訳家の桜井彦一郎の協力により1900年(明治33年)についに自分たちの手で女子英学塾を設立します。

彼女はそこの初代塾長に就任します。

1929年(64歳) 死去

自らアメリカ型の実践的な学校を設立した梅子たちですが、金を出すけど口を出す出資者を敬遠したため、その経営状態はしばらくあまり芳しくなかったようです。

また設立後すぐに健康を損なったと言われており、学校としての基盤が整った1919年には塾長の座を辞しています。

その後鎌倉の別荘で長期療養の後、1929年(昭和4年)8月16日に64歳でその生涯を閉じています。死因は脳出血だったそうです。

ちなみに設立に関わった父の仙は1908年に、アリス・ベーコンは1918年にアメリカで、大山捨松は1919年、瓜生繁子は1928年、桜井彦一郎は1929年2月に亡くなっています。

亡くなる直前に同志二人が亡くなっているおり、このあたりも精神的にショックは合ったのかもしれませんね。

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日本帰国後はしばらく日本語が話せなかった

彼女の経歴を調べていて驚いたのは最初の留学から帰国後しばらくは日本語を話せなかったという点ですね。

六歳で両親と離れてアメリカに渡っており、一番成長する時期にアメリカで生活すれば英語が第一言語になるのは当然の流れでしょうし、おそらく発音も日本のカタカナ英語ではなく、本物の英語だったんでしょう。

最初の英語教師をする傍ら日本語を学んでいたり逆に日本語の通訳もいたようで、日本生まれのアメリカ育ちということで中身は完全にアメリカ人の女性だったのでしょう。

そんな女性が開国して数年の日本に帰ってくれば、周囲から浮くのは当然の話かもしれませんね。

真の意味での女子教育の第一人者

彼女が創立した女子英学塾はそれまでの女性としてのたたずまいなど行儀作法の延長上のことを教育していた女子学校とは、完全にその教育方法が違っていたと言われています。

実際にアメリカの大学で研究していた梅子でしょうから、目指していたのはそこであり、より近代的で実践的な学生の育成を目指していたと思われます。

またそれらの教育方針を維持するために資金援助はなるべく断っていたのは、そのぶれない心と覚悟を示すものでしょう。

鎖国開国後数年ということを考えるとかなり風当たりの強い時代だったとは思いますが、そんな中、女子の男子並みの教育のレベルへの向上や教育機会の増加に貢献した実績は、おそらく彼女が最初であり開拓者なのでしょう。

資本主義の父が渋沢栄一であれば津田梅子は女子教育の母として新紙幣に選ばれるのは納得という感じがしますね。


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