キュリー夫人とは?:知りそうで知らない世界の偉人たち(1)

マリー・キュリー

ポーランド生まれの偉大な人物も名前のイメージが先行

ワールドカップロシア大会の決勝トーナメント一回戦で日本がベルギーに負けてしまい、爆発的な盛り上がりを見せたロシア協奏曲も、メインパートに入りながら静かな調べに聞こえ始めましたが、その結末はどうなるのか個人的にはまだその第二章も気になります。

さて、サッカーの話題はこれぐらいにして、前回の記事では予選リーグであたるポーランドのことを調べていると、世界的な偉人であるキュリー夫人がこのポーランドの出身であることを改めて知ることができました。

しかしながらこのキュリー夫人、おそらく僕と同じ方も多いとは思いますが、どうしても音的に野菜の胡瓜(きゅうり)と似ているので、”きゅうり夫人”と単に野菜の名前がついているなんか偉い人といったイメージのほうが先行してしまいます。

幸いにして僕は理系出身のため彼女が元素名にその名前が冠されている科学者であることは知っていますが、実際に何をした人だとか、ポーランド出身であることさえ知りませんでした。

そこで今回は、前回の記事で色々調べているうちに初めて知ったこともったくさんあったので、改めてこのキュリー夫人がどういった人だったのかフォーカスしてみたいと思います。

(画像引用:「キュリー研究所」公式サイトより:写真は1922年のポーランド旅行時のマリー・キュリーとクラウディアス・リガードと思われます。)

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キュリー夫人の生涯

前回個人的に色々調べたもの(メモしていたもの)をまとめてみました。

誕生

1867年(0歳) ポーランドのワルシャワ生まれ。生誕時の名前はマリア・サロメア・スクウォドフス(Maria Salomea Skłodowska)。父親は下級貴族出身でペテルブルグ大学(ロシア)で数学と物理学を教える科学者だった。(当時ワルシャワ王国はウィーン会議(ナポレオン戦争の戦後協議)により帝政ロシアの支配下にあった)

フランス移住

1891年11月(24歳) 失恋を機に姉夫婦が住んでいたフランスのパリに移り住む。名前もマリアからフランス風のマリーに変える

出会いと結婚 そして母となる

1894年(27歳) フランスでは無名ながら国外では評価を得ていた科学者であり大学で講義をしていたピエール・キュリー(Pierre Curie)に出会う

1895年(28歳) ピエールと結婚。貧乏なため自転車にのってフランス国内を新婚旅行

1897年(30歳) 長女のイレーヌが誕生

極貧な研究生活から栄光へ

1898年(31歳) 恵まれない研究環境の中から、夫とともに新元素であるポロニウムとラジウムの存在を提唱。

1903年(36歳) 放射光を発見したベクレルと夫のピエールとともにノーベル物理学賞を受賞

1904年(37歳) 次女エーヴ誕生

不倫報道と二度目の栄誉

1906年(39歳) ピエールが馬車に轢かれ死亡、パリ大学から彼の研究施設と職位などを引き継いで与えられる

1911年(44歳) ピエールの教え子でもあった物理学者ポール・ランジュバン(Paul Langevin)との不倫報道が行われる中、ノーベル化学賞受賞。

第一次世界大戦

1914年(47歳) 第一次世界大戦が勃発するもパリにとどまり、レントゲンの装置やそれを装備した車などを開発して、負傷者などの治療のために自らもそれに乗り込み奔走。長女イレーヌもそれに加わる。

1918年(51歳) 第一次世界大戦が終戦し、故郷であるポーランドが独立した国として復活。初代首相となった国際的ピアニストでもあったイグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Van Paderewski)とはパリ時代の在フランスポーランド人として旧知の仲だった。

アメリカ訪問と後進の育成

1920年(53歳) ロスチャイルド家の出資によりキュリー財団が設立されるも、物理や化学の研究には十分な費用とはならなかった

1921年(54歳) アメリカ人記者の取材の縁などもあり娘二人とともにアメリカを訪問。国を挙げての大歓迎を受け、研究機器や資金を得ることに成功するも母国フランスは何もしていないため焦る(笑)。

1922年(55歳) ユネスコの前身であるICICメンバー12人の一人に選ばれる。新渡戸稲造はこの会合で彼女と会っている。

1925年(58歳) ワルシャワにキュリー研究所を設立。

最後

1934年7月(66歳) 研究時の被爆が原因と思われる白血病(再生不良性貧血)のため亡くなる

正確には元々ロシア人?

さてここからは色々調べたうえで気になった点などをつついていきたいと思いますが、まずはキュリー夫人ですがポーランド出身と言っても現実には彼女が生まれた時のワルシャワはロシアの支配下にあったので実際にはロシア人という表現が正確なのかもしれません。

日本ほど国籍の概念はないとは思いますが、1800年代の約100年間はポーランドに独立した国家はありません。

20代でフランスのパリに行って結婚してそのまま生涯を終えているので国籍はロシア→フランスというのが正しいのでしょうか。

ただ、お父さんは下級貴族出身でありながら貧しい生活を送っていったことを考えるとポーランド人としての誇りは高く、ロシアに対する忠誠はまったくなかったでしょうね。

生涯のほとんどが貧乏生活

彼女のことを調べているとついて回るキーワードが貧乏です。

ワルシャワ時代はポーランド人は元々のロシア人から下に見られていたでしょうし、フランス移住後も女性の科学者が地位を得ていない時代だったので、家庭教師などのアルバイトをしたりしながら研究を行っていたと言われます。

時にはお腹が空きすぎて気絶したというエピソードもありますし、ピエールと結婚後もその研究材料を得るためほとんどが自腹で行っていたようです。

ノーベル賞を夫婦で受賞後はピエールが大学で地位を得たので生活は若干安定したようですが、第一次世界大戦時は自国フランスを助けるため戦争国債を紙くずになることを覚悟で買っていたようで華やかな話は全くありません。

栄誉や支援を良しとせず、研究結果こそすべてと考えていたようで、一生を研究にささげた研究者の鏡と言えますね。

女性初のノーベル賞の受賞者

一回目のノーベル物理学賞の受賞は元々ベクレルが発見していた放射光の解明と研究を行ったことが受賞の理由となったようです。

ベクレルが最初に放射光を発見していたもののその研究はとん挫しており、その研究に目をつけ理論化・証明したのがキュリー夫妻だと言われています。

ちなみに現在一般的に浸透している放射能や放射性元素という言葉は彼女(たち?)が命名したと言われています。

そしてなんといっても一回目のノーベル賞の受賞は女性で初めてというすばらしい偉業でした。その後50人近くが受賞しているようですが、その先駆者が彼女だったわけです。

二回目のノーベル賞受賞も初

これまでノーベル賞を複数回受賞人や団体は六組いるそうですが、史上初めて複数回ノーベル賞を受賞したのが彼女マリ・キュリーとなります。(ここまで書いてくるとキュリー夫人という表現は失礼すぎてやはり正確な表現が彼女の功績に対する礼儀のような気がしますね。)

二回目の受賞はノーベル化学賞の受賞であり、選考理由はポロニウム(Po:元素番号84番)とラジウム(Ra:同88番)という二つの元素の発見です。

ちなみに別分野で受賞した人は彼女とアメリカ人のライナス・ポーリング(物理賞と平和賞)という人だけだそうで彼女が当然初めての人ですね。

これはあまり知られていないような気がしますし、僕も知りませんでした。

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不倫騒動と二回の決闘

こうした偉人の裏の顔は図書館にあるような本には当然書かれないので知られていませんが、夫の教え子であったポール・ランジュバンとの不倫(マリは夫と死別していたがランジュバンが既婚者だった)は当時フランスのマスコミの格好の餌食となったようです。

すでにノーベル賞受賞者であった彼女のスキャンダルは大騒ぎになったようで、いつの時代、どの国のマスコミは大好きなのか家にまで記者が詰めかけてくるなど大変だったようです。

しかも興味深いことに20世紀に入ったこの時代にこの騒動を理由とした二回の決闘が行われています。

一回目は報道合戦をしている新聞社の編集長同士が剣を持って戦いに挑み、二回目は不倫相手のランジュバンと記者との間で行われたようでこの時は銃での戦いだったようです。

幸いにして死人は出ず、お互い和解したようですが、いかに大きな騒ぎだったかが分かりますね。

更に面白いことに、このスキャンダルはノーベル化学賞の受賞がすでに決定した後のことのようで、授賞式を行うスウェーデン時代は騒ぎを持ち込んでほしくなく、非公式彼女の来場を断っていたそうです。

しかしながらマリ・キュリーと知人であったアインシュタインのアドバイスなどもあり、授賞式に出席しスウェーデン国王とならんで食事などを行っています。また国王さん自身も後に不倫をして騒ぎを起こしています(笑)。

この不倫騒動は噂だけなのかな?と個人的には思いましたが、どうも相手とのやり取りの手紙など証拠がガッツリとあることや、相手が常習犯だったようで調べる限りがっつりクロのようですね。

娘イレーヌもノーベル化学賞を受賞

これもあまり知られていませんがキュリー夫人(マリ・キュリー)が亡くなった翌年の1935年には「人工放射性元素の発見」(アルミニウムの同位体からリンの同位体を生成:史上初めて人工的に放射性同位体を生成した)により長女のイレーヌ・ジョリオ=キューリー(ジョリオは元々夫の姓)が夫のフレデリックとともにノーベル化学賞を受賞しています。

ちなみにフレデリックはマリの研究所の助手だったようで、当然の出会いだったようですが、親子ともに夫婦で受賞しているというのは環境のせいもあるものの、科学者一家だったことがよく分かりますね。

ちなみに親子で受賞は四組いるそうですが、親子連名での受賞(1915年にブラック親子が物理学賞を受賞)を除くと史上初のようです。

ちなみにエーヴ・キュリーだけ科学の道に進まずピアニストになり、後にアメリカで103歳でその生涯を終えますが、一人だけ放射能研究をしてないせいか長生きしています。

マリ、イレーヌ、フレデリックは研究による被ばくが原因で白血病になり亡くなっています。

キュリー研究所

1921年、マリ・キュリーとクラウディアス・リガード(*Claudius Regaud:1870-1940、フランス人、*フランス語的にはクロディウス・エゴー?)によってキュリー研究所がフランスのパリに創設され、その中からキュリー親子以外にも二名のノーベル賞受賞者が現れています。

ノーベル賞がすべてではありませんが、キュリー夫妻の意思を引き継いだ研究機関が現在も存在し、世の中のために研究が行われていることは素晴らしいことであり、感慨深いものがありますね。

リンク

キュリー研究所(フランス語)

雑記

一週間前に書いたポーランドの記事から派生したこの記事ですが、こういった調べもの系の記事は知らなかったことを随時コピペしながらメモして行き、知っている知識と組み合わせながら構成していくんですが、めっちゃ手間と確認作業で時間がかかってしまいます。

構想一週間でやっと出来上がったりしているわけですが、間違ったことやトリビアなどありましたら教えていただくと大変助かりますし、勉強になるのでよろしくお願いします。

まぁこの記事の目的は最近忘れやすいおっさんのメモ用ではあるんですけどね。(あと飲みの席でのウンチクのカンニング用とかw)

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