「応仁の乱」とは何なのか調べてみた

金閣寺

現在まで日本の歴史をたどれば様々な混乱期がありましたが、有名なところでは室町時代末期から安土桃山時代における戦国時代がもっとも有名で、誰もが最初に思い浮かべる基本の大混乱期でしょう。

しかしながらこの戦国時代はどちらかと言えば、各地方有力者たちのなわばり争いの様相も強く、言ってしまえば各地で無作為にドンパチが行われていたわけで、その最終的なトーナメントの頂点に立ったのが豊臣秀吉や徳川家康となります。

他にも鎌倉幕府成立までの平氏や源氏の対立も全国的な混乱だったとも言えますが、個人的にそれを超える混乱期として一番に思い浮かぶのが「応仁の乱」による混乱です。

鎌倉幕府成立時の混乱が支配体制の変化ということで、言わば軍部のクーデターぽい感じがするのに対して、この「応仁の乱」は室町幕府というある程度支配体制が整っている中での混乱・および勢力争いだったことを考えると、日本の歴史の中では特異な印象があります。

そこで教科書でも習う「応仁の乱」とは一体どういった争いだったのか、今日仕事をしてて突然気になったので調べてみることにしました。いつものように僕の知的好奇心を満たすためだけの記事となります(笑)がお付き合いください。

(画像は恐らく応仁の乱と全く関係のない金閣寺です。ちなみに足利義政が建てた銀閣寺はもっと後になります)

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応仁の乱とは

応仁の乱とは、室町時代の1467年(応仁元年)から1477年(文明九年)まで約11年間におよんで日本全国を巻き込んで起こった内乱となります。

ことの発端は八代将軍足利義政(あしかが よしまさ)の後継者争いにあると言われ、それぞれの候補を支持する管領どおしの対立が徐々に発展する形で日本全国を巻き込んだ戦いとなりました。

11年間にもおよび大乱は都を荒廃させるだけでなく、将軍家の権威を失墜させ、この後しばらくつづ戦国時代の引き金となります。

室町時代の支配体制

「応仁の乱」の概要について上記のようなことは大体知っているんですが、問題は何が理由起こってで結局どうなったかです。

中学校や高校時代は全く興味なかったことが、なぜか大人になると知りたくなりますね。(この知識欲が若い時に欲しかったw)

まずは室町幕府とはどういった幕府だったのでしょうか。

鎌倉幕府との違い

鎌倉幕府はご存知のように武士が支配階級となった初めての幕府ですが、源頼朝を初代将軍として奥さんの北条政子の出身である執権北条氏がそれをサポートする形となります。

特徴となるのは御家人と言われる制度であり、御恩と奉公の関係に成り立ち、何らかの成果をあげれば、土地などの褒賞が与えられるという関係でした。

しかし俗にいう元寇が起こります。

国の防衛には成功しますが、あくまで防衛戦で会ったため、これに対した御家人達に土地など満足な恩賞を与えることができないため、次第に彼らに幕府に対する不満がたまります。

彼らを治めるはずの幕府も、歴史は繰り返すというように、代を経ると支配者階級であり実際に政務をとりしきる執権の北条氏も政治を疎かにし、腐敗が進みます。

その後朝廷の後醍醐天皇の暗躍もあり鎌倉幕府は滅亡します。

そして新しく室町幕府を開いたのが元々後醍醐天皇の先兵として動いていた足利尊氏だった(その後関東遠征に際し離反)のですが、鎌倉幕府があくまで血族を中心とした支配体制だったのに比べて、あくまで鎌倉幕府を倒した有力者たちの連合体の代表が足利家(尊氏)であったため、その支配体制や将軍の権威そのものがそれほど盤石ではなかったということです。

おそらく最初はあくまで尊氏のカリスマ性に頼った部分が大きかったのでしょうが、鎌倉幕府の時のように平氏や源氏といった二極化がなかったせいもあるのかもしれませんね。

管領と力を持つ守護大名

室町幕府の支配体制は都が鎌倉から京都に変わったことぐらいで、基本的な体制は鎌倉幕府のやり方を踏襲しています。

執権という役職の代わりに管領(かんれい)というポジションがうまれますが、この立場についたのが、足利一門である細川氏、畠山氏、斯波氏だったと言われます。

しかしながら京都以外の土地は有力大名である前述の三氏の他に一色家や今川家、赤松家などは討幕時と同じくあくまで力を保持した状態であったため、その支配体制は極めてギリギリの力関係の上になりたっていたことが想像できますね。

中国なんかでは王朝が変わって新しい皇帝が立つと、それまでの功臣の一族が滅ぼされたりしますが、長期的に盤石な支配体制を考えるとこのようなやり方も少し納得してしまいます。

結局彼らの力を削いでおけなかったことが室町幕府の滅亡、戦国時代の群雄割拠につながったのでしょう。

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応仁の乱はなぜ起こったのか?

改めて調べてみると分かったのは、実はよく分かっていないという点です。

僕も”え、そうなの?”と思い笑ってしまいましたが、守護大名同士の跡目争いや将軍の後継ぎ問題など複合的な要因は絡んでいるものの、なぜここまで乱の規模が拡大して長期化したかははっきりせず、あくまでそういつ説があるという表現がされていますね。

そこで時系列を追いながら検証してみたいと思います。

足利義政とはどういう将軍だったのか?

まず、乱が起こったのは1467年とされていますが、この時の室町幕府の将軍は八代将軍足利義政(あしかがよしまさ:1436年-1490年)となります。

銀閣寺を建立した人として室町時代の将軍の中では尊氏、義満に次いで有名ですが、それしか知られていませんね(ただ僕が知らないだけという噂も・・・)。

この足利義政という人物、ほとんど名前しか知らない方のほうがほとんどでしょうが、出自としては三代将軍足利義満の孫になります。つまり初代足利尊氏の孫の孫ですね。

1436年に六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の三男として誕生しており、上に二人も男子がいるので将軍としては期待されてなかったようですが、兄である七代将軍足利義勝の急死により1443年にわずか7歳で八代将軍に即位しています。

ちなみに兄義勝も7歳で即位して9歳で亡くなっているので幼年の将軍が二代続いたということになります。いかにも歴史にはよくある滅亡フラグですね(笑)。

当然側近たちがのさばり始めるわけですが、彼の後見は管領の畠山持国(はたけやまもちくに:1398年-1455年)という人物だったようです。

側近たちの勢力争いと跡目争い

義政の後見はあくまで畠山持国だったようですが、当然他のライバルたちが黙っているわけにはいきません。他の守護大名たちもしゃしゃり出てきたようです。

特に畠山氏に対抗したのが同じ管領職につく家格の細川氏だったので、このあたりの事情を知ると、段々と応仁の乱の骨格が見えてき始めますね。

当時は各家の跡目争いなどが多く、幕府や他の有力守護大名が積極的に介入しているようでっすが、言ってしまえば会社の派閥争いみたいなものなのか、将軍を差し置いて畠山氏や細川氏は暗躍していたようです。

ただ後に問題はこの畠山氏自身に起こります。

畠山持国には嫡出(正式な奥さんの子供)の男子がおらず畠山一族の跡目争い(甥の政久と庶子の義就派に分断)に発展しますが、家臣団も真っ二つに分かれ血で血を洗う戦いとなり、細川氏や有力守護大名の山名氏も介入し始めます。

最終的に将軍義政の介入(この時18歳ぐらいなのでさすがに成年していると言えますね)により義就が跡目を継ぐことが決まりますが、細川氏や山名氏は畠山政久を支持していたようで確実に遺恨を残しており、山名宗全などは一時失脚します。

ただ、将軍義政に支持されたことにより調子に乗ってしまったのか畠山家の家督を継いだ義就さん、やりたい放題やったせいで義政に疎まれ最終的には朝敵となります。

結局畠山家は跡目を争って敗れた政久の弟畠山政長の手に戻り、彼を指示した細川勝元から管領職も譲り受けます。この時期に山名宗全も復権しています。

九代将軍の跡目問題

上記のように幕府の要職につく家の問題が片付いたと思ったら今度は将軍家の跡目問題が発生です。

1464年将軍の義政も隠居を考えるようになった(ただこの時28歳ぐらいですね)ようですが、すでに正室の日野富子との間に男子がいません(一人いたが1459年に早世)。

そこで義政の弟であり出家していた足利義視(あしかがよしみ:1439年-1491年)を環俗させますが、なんと翌年の1465年に日野富子との間に男子が誕生。

タイミング良過ぎでしょと何かキナ臭さは漂いますが、すでに弟の義視を後継者指名しているため大問題となります。当然日野富子も自分の子こそ正当なる将軍の血筋ですし本来ならノータイムでこの子が次期将軍なので引き下がれません。

そこで日野富子は有力者の山名宗全を頼ることになりますが、もう一人の有力者細川勝元は義視を支持し勢力が二つに割れ始めます。

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 応仁の乱開戦

権威のみの将軍位

八代将軍義政の跡目争いは当初義政自身が明確な姿勢を示さなかったために、大きく動くことはなかったようです。

おそらく我が子は可愛かったでしょうし、かと言って自分や兄のように幼年で将軍につけることは避けたかったようで、弟の義視はそのつなぎの役割を期待したと言われています。

理由としては至極全うな答えなのですが、ここでもう一つの問題が起こっていたと言われています。それが将軍として自由に動かせる側近がいなくなっていたという点です。

ここまでの流れを見ていくと将軍義政も成年後は親政を行っており、存在感を漂わせていますがこれもあくまで自分の手足となって動いてくれる直近の部下がいたからのことでしょう。

畠山家や細川家なども一族として有力ではありますが、関係性としてはあくまで補佐的な位置づけだと思います。命令を出したからと言って”はいそーですか”と簡単に動くような関係だったとも思えません。

だから頼みの綱は手足となる部下だったわけですが、この応仁の乱が起こる前の数年の間にことごとく彼らが失敗し力を失います。詳しい説明をしだすと細かくなるので省略しますが、関東に絡んでの問題や前述の畠山義就も将軍の威光に乗っかり過ぎたがために、結局他の大名だけでなく将軍義政からさえも疎まれ、徐々に自分の手足も失っていくわけです。

こう書くと何か陰謀めいたものも感じますが、もはやこの時点で義政は実際に力をもたないお飾りの将軍になっていたことが分かります。

畠山問題が再燃

こういった状況の中、いよいよ応仁の乱が起こりますが、原因は先ほどから何度も出ている畠山義就となります。

かつて将軍からお墨付きをもらったもののそれを傘にやりたい放題やったため疎まれ政敵にまでなった彼ですが、家督は失っているものの恩赦により後に許されています。

ただ本来であれば従兄弟でライバルでもある畠山政長は管領の職についているので復帰の目はなかったのでしょうが、将軍家の跡目争いも絡んで実子派の山名宗全に呼び出されます。

こうなると反発するのが元々兄が彼と争って敗れた政長です。

この両者が激突するに及んでいよいよ「応仁の乱」開戦となったわけです(なるほどなー)。

応仁の乱勢力図

全部書くとややこしくなるのでここまで登場した人物中心に書きます

東軍(細川勝元派)

  • 細川勝元(細川家)・・・元管領で畠山政長の後見人で妻の従兄弟
  • 畠山政長(畠山家)・・・勝元から管領職を引き継ぐ。兄は政久は一時従兄弟の義就に跡目争いで敗れる
  • 足利義政(将軍家)・・・時の足利八代将軍
  • 足利義尚(将軍家)・・・将軍義政と日野富子の実子

西軍(山名宗全派)

  • 山名宗全(山名家)・・・有力守護大名山名家当主であり、義政の妻日野富子が信頼
  • 畠山義就(畠山家)・・・かつて畠山家の家督争いに勝利し、将軍義政にも支持されるが失脚
  • 斯波義廉(斯波家)・・・三管領家の一つ斯波氏の頭首であり畠山政長の後任の管領
  • 足利義視(将軍家)・・・将軍義政の弟

主だったところを書くとこうなりますが、京都周辺から九州にかけてたくさんの守護大名が東西に分かれて分裂して戦っています。

山名家の一部にも東軍に参加している人物もいたり、他の有力大名も親族で東西で分かれて戦うなど様々な思惑があったと考えられます。

応仁の乱のその後と疑問点

きっかけに過ぎなかった時期将軍問題

最後に、ここまで書いていきて、ちゃんとここまでの内容を読んだ方ならふと疑問に思うことがあると思います。

それが将軍家の跡目争いの支持基盤が入れ替わっているという点です。

僕も書いていて”あれ?”とは思ったんですが、当初義政の奥さんの日野富子は実子の義尚を将軍にしたいために山名宗全に近づいたはずなんで、この流れのままだと義尚は当然”西軍なのでは?”と思いましたが実際は東軍のようであり、弟の足利義視は果たしてどういった経緯で西軍になったか謎な部分があります。

おそらくこのあたりを突き詰めていくとまたダラダラと書いていかなければならなくなる(笑)ので省略しますが、元々将軍候補だった二人はのちにそれぞれ将軍についている(子の義尚が九代で弟義視が十代将軍)ことを考えると、彼らはそれぞれきっかけに過ぎなかったと考えられます。

おそらく将軍家は結局置いてきぼりにされたまま、勝手な恨みつらみと積年の重いがこの戦いを招いたのでしょうが、要は完全に私闘に感じますね。

乱後の日本

これも将軍家としての威光がこの時代にすでに無くなっていたことを示すいい例ですが、応仁の乱は日本の大半を巻き込んでこの後11年続き、京都の町を焼き払うことになります。

最終的な結果として参加していた守護大名たち自身も疲弊していき、徐々に戦乱からの撤退や相手陣営などへの寝返りも起こりはじめ事態は収束していきます。乱の主役であった細川勝元や山名宗全も途中で病死しているのでその影響もあったのでしょうし、乱の終了1年前には義政が隠居して結局息子の義詮に将軍位を譲っているので、場合によってはなんのために戦っているのか分からない勢力も出てきたのでしょう。

結局東軍優勢のまま和睦となるわけですが、結局大名や有力者同士の激突だったので失うものは多くても得るものはほとんどなかったことが推測されます。

結果的にこの応仁の乱により守護大名たちが京を離れることが多くなり、元々支配体制の弱かった室町幕府がより弱体化し、本来税収を得るための領土だった土地に、大名たちが根付き始めます。

また戦闘のために人手はいくらでも欲しかったので、本来は身分の低い地元の豪族たち、いわゆる国人達が戦闘の参加や勝利の報酬により力をつけ、逆に力を失う守護大名も出てきます。

結果、室町時代の支配体制が崩れてくるわけで戦国時代の下地ができあがったというわけですね。

対立して参加していた大名の名前なんかを見ると、戦国時代に登場してくる有名な名前がいっぱい出てきますが、これから100年後の戦乱の時代の原型がすでにできあがっていた考えるとこの15世紀から16世紀という時代がいかに混乱して荒廃していたかがよく分かります。

雑記

以上仕事しながら突然”「応仁の乱」について何なのか気になって”調べてみた40代のおっさんのレポートでした(笑)。

最後は調べつかれてグダグダになりましたが、結構勉強になりました。これで室町時代のウンチクはバッチリです!。

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