「藤堂高虎」 は転職七度の忠義もの:おもしろ戦国武将列伝(2)

藤堂高虎

ネタに困った時のネタシリーズとして思いついた”おもしろ戦国武将列伝”シリーズですが、二回目は豊臣秀吉や徳川家康では少し芸がないので、築城の名手として有名な藤堂高虎(とうどうたかとら)のお話です。

さてみなさんこの藤堂高虎という武将はご存知でしょうか。

世間一般では、恐らく何となく聞いたことがあるというレベルの知名度の武将ではあると思いますが、藤堂高虎と言えば”築城の名手”ということと”主君をころころ変えた風見鶏”としてその名前は歴史好きやKOEIのゲーム好きの方には認識されているはずです。

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藤堂高虎とは

1556年近江の国出身の戦国武将で築城の名手として有名で宇和島城や今治城の他、津城や伊賀上野城など数々の城を建城しています。

また主君を度々変えたことも有名で、1630年に74歳で亡くなるまで8人の主君に仕えたと言われています。

築城や内政などで評価の高い武将ですが、自身は身長190㎝体重110㎏はあったと言われており、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)の先鋒として石田三成の盟友である大谷吉継の部隊と激戦を行い壊滅させるなど智勇兼備の戦国武将です。

伊予今治藩、伊勢津藩などの初代藩主。

高虎が使えた主君一覧

藤堂高虎は分かっているだけで8人の主君に仕えています。

  1. 浅井長政(あさい ながまさ)※あざいとも呼ばれます
  2. 阿閉貞征(あつじ さだゆき)
  3. 磯野員昌(いその かずまさ)
  4. 織田信澄(おだ のぶずみ)
  5. 羽柴秀長(はしば ひでなが)
  6. 豊臣秀保(とよとみ ひでやす)
  7. 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
  8. 徳川家康(とくがわいえやす)

まず最初の浅井長政ですが出生国の近江の大名ですので自然の流れですね。

ただ当時藤堂家は落ちぶれていたようで足軽スタート。末端も末端だったようですが、織田・徳川連合軍対朝倉・浅井連合軍の戦いとなった姉川の戦い(1570年)では敵指揮官の首級を挙げるなど活躍しています。

浅井長政が1573年に織田信長に討たれた後は、それぞれ浅井の旧臣であり信長配下となっていた阿閉貞征や磯野員昌に仕えてたり、信長の甥(かつて自らの手で殺害した信行の嫡男)織田信澄に仕えています。

その後1576年頃に秀吉の弟であり秀吉の躍進を支えた一人だと言われる羽柴(豊臣)秀長に300石で召し抱えられたあたりから目に見えた出世をしていきますが、彼の死後は秀長の養子(秀吉・秀長の姉の子なので血縁的には甥)の豊臣秀保に仕えた後、秀吉・家康に仕えています。

本当に主君を簡単に変える世渡り上手なのか?

藤堂高虎というのは現代でも主君を度々変えた武将としてマイナスイメージを持っている人もいますが、幕末でもそのイメージは同じだったようです。

幕末の重要な戦いとして有名な鳥羽伏見の戦いでは藤堂家の津藩は当初幕府側として出兵したのですが、劣勢とみるなり新政府側に寝返ったそうで、この時幕府側から”さすが藩祖藤堂高虎の藩らしい”といった趣旨の誹りを受けたそうです。

このように藤堂高虎という人物は勝ち馬に乗る風見鶏のイメージが世間に根付いていたと考えられます。

ただ、実際にその歩みをひも解いていくと本当にただの転職屋だったのでしょうか?

不自然さはない主君の変遷

これは実際に歴史を追っていくと分かりますが、藤堂高虎が七度も主君が変わったことについてそれほど不自然さは感じられません。

まず一人目の主君浅井長政、これについては地元の有力者(大名)にそのまま使えたという形ですね。

次に1573年浅井氏の元旧臣で信長配下になっていた阿閉貞征に仕えていますが、当時17歳でまだ足軽が戦でちょっと活躍しただけの段階なので、身分は当然下っ端だったのでしょう。

これは現代において正社員というよりもバイトに近い立場だったでしょうから、近所の元同じ系列会社(主君)であった磯野員昌の配下(と言っても下っ端でしょう)やその養嗣子であった織田信澄の配下になっていることにそれほど違和感はありません。

彼らはすべて信長配下の武将たちなので、あくまで同じグループの下請け会社を移っているだけのような印象を受けます。また、この阿閉氏、磯野氏、織田信澄の三者は意外とつながりがありますし、軽い気持ちで誘われて移っただけではないのかと想像できます。

ついに理想の上司「羽柴秀長」登場

そして1576年(20歳頃)に、すでに四人目の主君となる羽柴秀長に仕えていますが、この秀長になると前の三者よりはちょっとだけ格が上がりますね。

当時秀長の兄の秀吉が軍団長になりつつあった時期なので、当時イケイケのIT企業の副社長の部下になったような感じですね。

300石で召し抱えられていますが、扱いとしては足軽隊長レベルでしょう。

ただ、ここから藤堂高虎は一気に出世していきます。

秀吉軍団に従い中国攻めや賤ヶ岳の戦い、四国攻めなどで目覚ましい活躍をしておりついには1万石を与えられ仕官から10年程度で見事大名の地位に上り詰めています。

これも勢いのある秀吉軍団にいたラッキーさもあるでしょうが、その中でもしっかりと結果を残せた実力もあってのことでしょう。

九州征伐では窮地に陥った味方の救出に命令違反を犯してまで行ったことが評価され、2万石まで加増されています。

このように秀長の下で高虎はトップの秀吉並みの躍進を遂げていますが、主君の秀長は世間的知名度は低いながらも、秀吉軍団の中でも影の実力者・人格者と言われている人物に仕えられたことは大きかったでしょうね。

おそらくこの時代に築城技術や人材、人脈が作られたのでしょう。

秀長死後

1591年、五人目の主君秀長の死後はその息子(養子であり血縁上は甥っ子)の豊臣秀保に仕えていますが、朝鮮出兵の際は若年であった秀保の代理で朝鮮に渡っています。

この秀保が6人目の主君と言ってもただの代替わりなので、この辺は無理やり感たっぷりですよね。

ただ、この二代目の秀保ですが秀長が死んでからたった四年後の1595年に17歳で早世しています。

あまりいい人物ではなかったと言われる秀保ですが、彼の死を機会に高虎は2万石を捨てて出家しています。

当時40歳近い年齢になっていたこともあり、秀長に対する恩義も済んだと感じたのかもしれんせんね。

秀吉からの取り立て

ただ、これだけ秀長のもとで大活躍して大出世した人物なので、親会社の親分豊臣秀吉がほっときません。

なんと元々与えられていた2万石に5万石を追加され七万石の大名として四国伊予に土地を与えられて土地持ちの大名になっています。

引退宣言をしたものの、とんでもない条件でヘッドハンティングをされたことになりますが、秀長の兄の秀吉に乞われて仕えることになっただけなので、別に勝ち馬に乗ったとか全然そんなことはありませんね。

その後二度目の朝鮮出兵では水軍として活躍しています(この功績により1万石加増されて8万石になっています)が、このあたりは瀬戸内海の村上水軍を使えたのが大きかったでしょうね。(今調べなおしてみたらこの戦いで村上水軍は主力武将を失うなど大被害を被ったようです。)

秀吉死後

秀長から秀吉に主君が変わってから3年後、1598年にその秀吉までが死んでしまいますが、当時はすでに伊予宇和島藩という土地を治めているので、関係性としては主君と部下というよりも豊臣家=本社、藤堂家=地方の営業所という図式になっていますね。

秀吉亡き後は息子秀頼が名前だけの社長に就任し、それを支える形で五大老の徳川家康や前田利家、毛利輝元が重役として存在し、実務は石田三成や小西行長が行っている形ですから、高虎は本社からの指示待ちの営業所長ですよね。

昔とは大分立場が変わっています。

その後、高虎は徳川家康について関ヶ原の戦いでの実際の戦いや、調略などでも暗躍していますが、おそらく現代まで続く彼の主君を変えまくっているという”妬み”ともとれる誹謗中傷もこうしてみると”豊臣秀長に恩義はあっても秀吉にそこまでの恩義は感じてないのでは?”と感じてしまいますね。

秀長とは一緒に戦った期間や距離も近かったでしょうが、秀吉時代はほぼ主君は大坂城で何もしてないので、愛着もそれほどではないでしょう。

また、この秀吉死後の争いはほとんど、次期経営陣を決めるための派閥争いですので、他の大名や藩などからのチャチャもそれほど彼を貶める要素には感じませんし、実際に戦で成り上がってきたわけではない秀頼や石田三成なんかよりも、同じ武闘派の徳川家康からの評価からのほうが今までの流れからすると粋に感じるような気がします。

つねに現場で全力を尽くす実力者

以上、高虎の主君の変遷の流れを追ってみましたが、やはり彼にとっては秀長の影響が大きかったでしょうし、当時に色々なことを得ることができたのだと思います。

また、ころころ主君が変わっているという評価も、当時の高虎の立場を考慮すると十分納得できることはよく分かるでしょう。

それより注目なのは、詳しくは書いていませんが、それぞれの主君の下で数々の活躍をしているということで、戦においては失策と呼べるような大きな失策も見当たりません。

また自国の領土経営に関しては抜群の政治力を発揮して納めており、すべてにおいて能力の高かった武将ということがよく分かります。

最後の主君となった徳川家康の元では外様大名でありながら譜代大名待遇で迎えられている武将であり、家康からの高い評価と信頼もうかがい知れることができます。

これは藤堂家か徳川家の配下となってから数々の戦で先鋒格となって活躍した功績も大きいのでしょうが、彼の歩みを調べれば調べるほど、”風見鶏”や”勝ち馬に乗った”、”戦国時代の転職王”という評価も、結局のところ、敗北者たちの嫉妬にしか感じられませんね。

出る杭は打たれると言いますが、それをはねつけるできる男だったのでしょう。

ほんと、こうして見ると藤堂高虎カッコよすぎます。