曹操孟徳はなぜ悪役のイメージなのか

このブログでは競馬に関する記事の次に取り上げることの多いマンガネタですが、先日「蒼天航路」についての記事(「蒼天航路」このマンガが面白い(8))を書いたところ、ブログ仲間さんたちの間で意外と反響が多かったのにはビックリしました。

特に「蒼天航路」そのものは読んでいないものの「三国志」そのものについては女性の方も小説やゲームで知っている方もおり、さすが日本人の大好きな「三国志」だなと感心しましたね。

そこで今回はこの「三国志」では悪役のイメージの強い曹操孟徳(そうそうもうとく)ですが、なぜ劉備=善玉、曹操=悪玉なのか解説してみたいと思います。

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世間のイメージは「三国志演義」によって作られたもの

ちょっとでも「三国志」をかじったことある方ならご存知の方も多いと思いますが、三国志には晋(※)の時代に陳寿によって編纂された正史である歴史書「三国志」(以下正史)と、明の時代に羅貫中によって執筆された小説「三国志演義」(以下演義)が存在します。

実はこの「三国志演義」こそが一般的に知られている「三国志」そのものなのですが、これは上にも書いているようにいわゆる”歴史小説”に分類されるものです。

もちろん全くのオリジナル作品ではなく、その原型はすでに北宋(10世紀頃)の時代にできあがっており、民間伝承や口伝により伝わった話をまとめたものと言われています。

そのため、諸葛亮孔明がまるで魔術師のように八面六臂の活躍をしていたり、劉備玄徳が聖人君主として描かれていたり、正史には登場しない武将が登場したりします。つまり自分のじーさまのじーさまから聞いたような類の話も多く、”盛った”話も含まれているわけです。

日本で言うと「真田十勇士」みたいなもんですね。。

つまりはこの「三国志演義」を書いた羅貫中のさじ加減一つで曹操を主役にすることもできたわけで、劉備=善玉というイメージはこの羅貫中によって決定的になったというわけです。

この「三国志演義」がのちに日本にも伝わり一般に浸透したわけですが、さらに吉川英治先生の小説化により一般化され現在の日本中の曹操=悪玉のイメージが定着したと言っていいでしょう。

※晋・・・諸葛亮孔明のライバルとして有名な魏の司馬懿の孫である司馬炎によって魏の後に建てられた国になります。

なぜ「三国志演義」は劉備よりなのか?

これは一般的に言われていることですが、「三国志演義」の大元の話(おそらく講談などで話されていたものでしょう)が出来上がった宋の時代背景が関係していると言われています。

高校時代に世界史を学んだ方なら少し記憶にあるかと思いますが、宋は北部の女真族の侵攻受け王都を奪われ(金の建国)、王族は中国南部に遷都し少しの間その命脈を保ちます(いわゆる南宋の誕生ですね)。

つまりこの時代背景が曹操の悪玉化とどう関係があるかというと、自分たちの本来の領土を異民族に簒奪されたという図式が、自分たちの王(漢の王様)の地位を本来その位につくはずのない人物(曹操)が簒奪したという点で一致していたというわけです。

実際にはこの漢の王族の劉氏から魏の曹氏(しかも実際は曹操の代ではなく、彼の死後息子の曹丕の代で行われている)への王朝の転換は禅譲(王位をそれに適した徳のあるものに譲る)であるため、曹操本人が非難を浴びる理由はないのですが、こういった背景があったと言われており、劉氏の血を引くと言われる劉備玄徳はその悪役に対する主人公としては最適な人物だったのでしょう。

その後明代になり小説「三国志演義」が誕生したわけですが、作者の羅貫中という人物もその出自などがハッキリとはしませんし、ゴーストライターという説もあります。ただ、中国南部の浙江省出身という説もあるので、もしかしたら主に魏が治めていた北部に対するアンチテーゼがあったのかもしれませんね。

また本末転倒にはなりますが、この「三国志演義」の成り立ちがどうであれ、人気小説の作者が主人公を三国時代に曹操孟徳のライバルとしてよく知られた劉備玄徳にしただけで、そこにもしかしたら深い意味などなかったのかもしれません。

結局どんなジャンルでもそうですが、例えば僕が「くたばれジャイアンツ」というノンフィクションの小説を書いて大ヒットしてしまえば300年後の人は昔とんでもない悪い球団があったと思われる可能性もありますよね。ちなみに今はそんなにアンチ巨人じゃありません(笑)

「三国志」の正史と演義どう違う?

余計な脚色がない

正史の「三国志」ほうは紀伝体として書かれおり大きく分けて「魏志」、「蜀志」、「呉志」の三部構成となり、編年体(年代順に話をまとめる)で書かれていないため、各章は主要人物たちが何をやったかいたってシンプルにかかれています。

歴史書と認められているので当然ですが、”魏マンセー!”という内容ではなく、あくまで中立に、例えば蜀の劉備は何をしたという事実が主体の記録になっています。

また、三国志演義などでは最大の見せ場のような、魏と呉・蜀連合軍の戦いである有名な「赤壁の戦い」も正史などでは蜀は参加はしていますがほぼ何もしていませんし、孔明が魏の大群相手にたくさんの弓矢を集める話ももちろんなく、演義の創作です。。

あと演義や正史とは関係ありませんが後漢末期に都で暴れまくった董卓は演義どおりの人物だったようで、演義が書かれた時代よりかなり前の8世紀頃の日本の資料で、すでに暴君の代表として認識がされていたようです。

演義にのみ登場人物がいる、名前が違う

有名なところでは関羽雲長の配下で黄巾族出身で関羽とともに切られた周倉などは三国志演義のオリジナル武将と言われていますし、関羽の息子の関索もその記述がないと言われています。

また、関羽と並んで有名な張飛などは正史では益徳、演義では翼徳と名前が違っていたりします。