テレビのイメージしかない新選組
ちょうど一つ前の記事では新選組や沖田総司、近藤勇などを題材とした「アサギロ 〜浅葱狼〜」(小学館)というマンガを取り上げました。
そこで今回は新選組そのものについて取り上げようと思うわけですが、まず新選組が活躍した時代と言えば幕末から明治維新にかけてというのは、さすがにご存知の方も多いでしょう。
しかしながら、明治維新前後という日本の歴史上、重要な時代に彼らは生きながら、ドラマや映画、小説、もしくは今回のようにマンガで取り上げられることは多くても、歴史の教科書での彼らの取り扱いは極めて微々たるものです。
そんなこともあってか、新選組についての知識は、ある程度フィクション要素も入ったテレビなどの創作物経由でとらえている方も多いでしょうし、僕もその一人です。
前回たまたま新選組のマンガを読んだこともあり、今回は実際に新選組やその隊士達が実際にはどういった人物だったのか調べてみたので、それをレポートしまとめてみたいと思います。
Contents
新選組(しんせんぐみ)とは
幕末に京都で反幕府活動を取り締まるために活躍した非正規の武装集団となります。
黒船来航以後、国を憂う志士たちが京都に集まり政治活動を行うようになったため、政治の中心は江戸から京都に変わりつつありました。
その集団の中には討幕の動きを見せる人物や団体もあったため、京都所司代や京都町奉行が京都の治安活動にあたっていました。
実働部隊として活動していたのが旗本・御家人など幕臣中心で構成された京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)だったのですが、それだけでは手に負えなくなり、そこで登場してきたのが新選組だったわけです。
しかしながら京都見廻組が幕府直轄の公的な組織なのに対して、新選組はあくまで京都守護職であった会津藩主松平容保の庇護のもと活動していた非公式の組織だったようですね。
また元々新選組は1862年に十四代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)が上洛(天皇のいる京都へ登る)の際に京都を警護するために清河八郎の献策によって関東で集められた浪士たちの集団が母体となっていますが、実際この時に集められた集団は清河の策略によって尊王討幕のために集められたものであり、その誘いに乗らなかった近藤勇や芹沢鴨の集団が中心になっています。
いわゆる壬生浪士組がその前身です。
壬生浪士組
将軍の警護のためにやってきたものの、実はその本来の目的が討幕のために集められたことを知り、同意しなかった一部の集団が彼らになりますが、元々は三派に分かれています。
1863年の3月あたりから本格的に活動を行っているようですが、本格的に名称を「新選組」としたのは同年の8月、八月十八日の政変での活躍の後のようですね。
結成時は24名いたと言われていますが初期は以下のような構成でした。
水戸一派
芹沢鴨(せりざわかも)を中心とした水戸出身の五人と後に加わった二人の計七人です。
新選組の初代局長を務めた芹沢ですが、水戸派は粗暴な集団と言われることが多いですね。
8月に正式に新選組の名前になっていますが、翌9月中旬には芹沢たちは近藤勇の試衛館一派に暗殺されています。
恐喝や破壊活動などが原因のようですが、実行犯は土方歳三と沖田総司など数人なのは間違いないようです。一緒にいた芸妓もころされています。
試衛館一派
近藤勇が武蔵野国(東京)で道場主を務めていた天然理心流の剣術道場”試衛館”に出入りしていた八人に斎藤一などを加えた十人です。
詳細はのちに記述します。
その他
殿内義雄をはじめとする七人ですが、水戸一派と試衛館一派の十七名があくまで主要メンバーであり、彼ら七人は結成後すぐの三月には、暗殺されたり脱退して関東に帰っていますね。
新選組の隊士についてもまとめてみました。
近藤勇(こんどういさみ)
1834年生まれ。のちの新選組局長ですが、元々は百姓の出自だったようです(ただそれほど貧しくはなかったようです)。
天然理心流の四代目だけあって剣術にはもちろん長けていたでしょうが、派手な活躍をしたイメージのある土方や沖田に比べると、実際の活動は彼らに任せて、どしっと構えて新選組をまとめるカリスマとしてのイメージですね(実際には池田屋事件では彼をはじめとする四人だけで二十人相手に突入していますが・・・)。
沖田総司にとっては旧知の中で、天然理心流の同門で兄弟子であり、師とも言える存在です。
ゲンコツが口の中に入ったり、写真だと強面ですが、実は身長は162㎝程度しかなかったようです。ごつい大男だというイメージがありましたが、当時としては普通の身長だったようです。
1968年4月、最後は新政府軍に捕縛され処刑されます。享年35歳(満33歳)
土方歳三(ひじかたとしぞう)
1835年生まれで年齢は近藤の一つ下になります。
新選組の鬼の副長としていられる人物ですが、生家は彼も農家(豪農)であり、実家秘伝の薬などの行商をして生計を立てていたようです。
元々色々な道場に通い剣の腕を磨いていたようですが、その時に近藤と出会い、1859年に天然理心流の道場に正式入門しています。ただ、免許皆伝にはいたっていなかったようです。
ただ、実戦派で知られ最前線でよく活躍していますよね。
新選組は近藤が局長を務めましたが、実務は副長である土方が行っていたと言われていますので、新選組の大体のイメージは彼によるものが大きいのかもしれません。
1869年5月、最後は戊辰戦争最後の戦いとなった北海道の五稜郭の戦いで弾を受け、戦死します。近藤勇の死から約一年後です。彼も35歳(数え年、満34歳)で亡くなっています。
沖田総司(おきたそうじ)
マンガ「アサギロ 〜浅葱狼〜」の主人公であり、のちの新選組の一番隊隊長です。
志半ばにして結核に倒れた天才剣士として有名ですが、マンガなどでは美男子として描かれれることが多いですね。
生年は1842年とも1844年とも言われていますが、陸奥国白川藩の藩士の息子として江戸で生まれたようなので、近藤や土方に比べると、一応武士の出にはなりますね。
ただ、面白いことに、武家出身の沖田の生年月日がよく分かっていないのに、農家出身(と言っても裕福な農家)であった近藤や土方の生年月日が正確に分かっているのは変な話ですね(笑)。
のちに近藤勇が四代目を務めることになる天然理心流の道場「試衛館」には9歳の頃から通い始めたようですが、その時近藤はまだ四代目を継承しておらず、古くからの兄弟子だったということになります。
天然理心流だけではなく北辰一刀流の免許皆伝を得ており、剣の腕はやはり超一流だったのは間違いなかったようで、土方や山南を子ども扱いするほどの使い手だったようです。
新選組としての主だった活動は1867年頃までであり、その後病気療養のため離脱しています。
早くに亡くなったイメージはありますが、実は近藤勇が処刑された約一か月後の1868年5月に肺結核が原因で亡くなっています。
美男子の天才剣士のイメージなので、剣の腕は華麗に思われますが、実は彼の稽古は荒っぽくて豪胆だったようで、華麗というよりも豪の剣だったのかもしれませんね。
正確も明るく、腕は立つけど教え方は大雑把というのは長嶋茂雄さんみたいなんですが(笑)、そう考えるとやっぱり天才型だったんでしょうね。
山南啓助(やまなみけいすけ)
新選組ではNO3である総長を務めた人物であり、文武に優れた人物と言われています。
沖田総司、近藤勇、土方歳三は一般的な教養があればご存知の方も多いのでしょうが、山南ぐらいになると歴史好きでなければ知らない方も多いですね。(ちなみに僕は大河ドラマやモンストの影響もあって存在は知っていましたが、詳細はこのマンガを読むまで知りませんでした)
元々北辰一刀流の免許皆伝の腕前だったようですが、天然理心流との対外試合で近藤に敗れて試衛館に出入りするようになったようです。
剣だけでなく政治にも明るく、温厚で人々から慕われる人物だったと言われていますが、1865年、突如新選組から逃亡した後、特に仲の良かった沖田総司がただ一人の追手に指名され捕縛されます。
最後は隊の規則などもあり切腹しています。理由は諸説ありますが、近藤達のやり方に徐々に合わなくなってきたとも言われていますね。
山南という名前の読み方はやまなみではなく、さんなんとも言われています。
永倉新八(ながくらしんぱち)
新選組二番隊隊長を務めた人物ですが、新選組の中でも剣の腕は沖田総司をも凌ぐとも言われており剣の達人です。
神道無念流の免許皆伝。
元々は松前藩の藩士だったようですが、剣術好きが高じて脱藩して剣の腕を磨いたようです。その流れで近藤の「試衛館」の食客となっています。
後に浪士組に近藤らとともに参加した後は、中心人物として活動していますが、1864年の池田屋事件(尊王攘夷派の土佐藩と長州藩の秘密裏の会合に新選組が襲撃した事件。二十数名の相手に対して新選組は他の隊士を残し、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人のみで突入した)で新選組の名前が一気に知れ渡った時期から、近藤のわがままな振る舞いが目立ち始めたため、少しづつ距離ができ始めたと言われています。
その後1868年頃までは隊士として活動していますが、新政府軍との闘いが本格化してきた1868年に江戸に帰ったのを機に近藤達から離脱しています。
タイミングが良かったのか、彼は戊辰戦争生き残り、のちに松前藩に帰参が許されます。
結局1915年1月まで生き、天寿を全うします。
享年77歳(満75歳)ですが、大正の時代まで生きていたんですね。この事実は初めて知りました。
斎藤一(さいとうはじめ)
新選組三番隊隊長。1844年生まれなので、沖田総司と同い年か若干年下ですね。
マンガ「るろうに剣心」では結構重要な人物として登場しているので、新選組の中ではもしかしたら結構有名な人物なのかもしれません。このあたりは年配の方と、若い方(と言っても三十台前後)では順位に違いが出るかもしれませんね。
1863年の壬生浪士組(新選組の前身)結成時には浪士組の水戸派と試衛館派13名に加えて新たに11名が加わりましたがその一人です。
1867年に伊東甲子太郎(いとうかしたろう)らが他の新選組隊士を引き連れ新選組を離脱して御陵衛士(ごりょうえじ)を結成した際にはこれに連なっていますが、実は間者のためにこれに加わったとも言われており、のちに新選組に復帰しています。(のちの彼らの粛清も彼が手引きしたようです。)
戊辰戦争中は旧幕府側の人間として会津など最前線で奮闘しますが、説得もあり投降しています。
のちに創設された警視庁に1874年入庁して警察官になったのは「るろうに剣心」でよく知られたところですが、彼は鎮圧のために警察官として西南戦争にも参加しています。
1915年9月に永倉が亡くなったのと同じ年に胃潰瘍が原因で亡くなっています。享年72歳(満71歳)。
剣術の腕は沖田総司、長倉新八と並び詳細される三人のうちの一人です。
芹沢鴨(せりざわかも)
新選組(壬生浪士組)の初代局長と言われる人物です。
現代のイメージの新選組と言うよりもそのスタイルが出来上がる前の浪士組のまとめ役とされた人物なのですが、元々は芹沢が率いる水戸の芹沢派と近藤派の二派に浪士組は分かれていたと言われています。
実直で剣を極める近藤派に対して、粗暴で乱暴者の集団だった水戸派との折り合いは悪く、最後は沖田総司などによって暗殺され、ついには真の新選組が出来上がります。
暗殺されたのが1863年9月だったということは新選組に名前が変わってすぐに殺されていますね。
原因は恐喝や放火などそもそも品格に問題があったからなんでしょうが、この時代は暗殺が頻繁に行われており、かなりアナーキーな状態だったと言えますね。
まとめ
他にも取り上げたい隊士などいましたが、長くなりすぎるのも考えものなので割愛しました。
また上記内容は僕の元々知っていたことに加えて、前回の記事の際に調べた内容などをミックスしたものです。
あくまで、僕のようなちょっとだけ新選組のことを知っている人向けにまとめたものですので、間違っている内容などがありましたら、ご指摘・ご指導いただければと思います。
その際は改めて修正を行います。