西郷隆盛って何をした人なのか調べてみた

2018年の大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」がいよいよ放映開始

大河ドラマ「西郷どん」

日本で一般的な学生生活を送ってきた人であれば、中学時代に日本史を学び、高校に入るとこれに加えて世界史を学んだ方も多いでしょうが、果たして大人になった今、学んだ知識がどの程度残っているかはかなり怪しいと感じている人がほとんどでしょう。

実際の所、今知っている知識のほとんどはテレビ番組のクイズやドラマ経由であったり、興味があって読んだ歴史小説やマンガがベースとなっていることがほとんどなんでしょうが、かく言う僕もそのベースはやっぱりゲームやマンガ、そして冒頭にとりあげる大河ドラマが重要となっています。10代の時に見た、大河ドラマの「独眼竜政宗」や緒方直人版の「織田信長」なんかは今でもかなり鮮明に覚えていますね。

結局のところ人間の知識なんて、やらされて覚えることより、自分で興味をもって調べたり見たもののとの頭の入り方の違いは月とスッポンぐらいの違いはあるでしょう。

さて2018年のNHK大河ドラマですが、去年評判の悪かった戦国時代モノの「おんな城主直虎」に引き続いて、今年は一部の腐女子さん達には抜群の人気を誇る幕末モノの「西郷どん(せごどん)」がスタートしました。(画像引用:NHK「西郷どん」公式サイトより)

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有名だけど何をした人かあまりイメージが湧かない

西郷隆盛今回の大河ドラマ「西郷どん」の主人公はタイトルを見れば一目瞭然ですが、西郷隆盛(さいごう たかもり)が主人公となります。しかしながら、この西郷さん。実際の所何をした人か知っていますか?(ちなみにこの肖像画に関しては最近色々な論争が起こっていますが、どれもはっきり言って顔が似ているので西郷さんでいいと思います)

僕もある程度一般の人より歴史には強いほうだと自負しているのですが、いざ西郷隆盛が何をした人か冷静に考えてみると考えてみると

  • 上野公園の銅像
  • 薩摩藩の藩士
  • 薩長同盟や大政奉還にかかわる
  • 征韓論を唱えた
  • 西南戦争で敗死した

ざっと上のようなことを思いつきました。

しかしながら、僕が無知なだけかもしれませんが、知識はあくまで断片的であり、西郷隆盛がどの程度の身分の人だったかや、明治維新後どのようなポジションにつき、なぜ西南戦争を起こして逆賊になったのかがイマイチ分かりません。

それこそキーワードは浮かぶものの全く繋がらないんですよね。征韓論なんて言葉は知っているものの具体的に何のために何をしようとしたのか説明できません。

ということで、知りそうで全く知らない西郷隆盛について勉強がてら調べてみることにしました。今回もあくまで僕の知的好奇心を満たすためだけの記事となりますが、もし幕末マニアの方などいらっしゃいましたらご教授いただくと助かります。

Contents

西郷隆盛(さいごう たかもり)とは

さっそくですがWikipediaの「西郷隆盛」などを中心に出身や家族構成などを調べてみました。

出身

1828年1月23日薩摩国(現在の鹿児島県)加治屋町で薩摩の下級藩士西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれ、幼名は小吉、通名は吉之助だったそうですが、なんとお父さんと同じ名前だったそうです。(今回の主役西郷隆盛と区別するために父親は以下吉兵衛と表記します)

同も本来は隆盛はお父さんの名前だったそうで、元服時には隆永という立派な名前をもらっていたものの、親友の届け出ミスでしょうがなく、隆盛の名前を使い始めたようです。

外国式だと西郷隆盛二世とか西郷隆盛Jrが正式名ですね(笑)。

家族構成

西郷隆盛(吉之助)は四男三女の兄弟の長男だったようで、弟の西郷従道は隆盛死後の明治政府でも活躍しています。

生涯で3人の奥さんを迎えていますが、四人の男子と一人の女子をもうけています。

※詳しい家族構成はページ下部にまとめました(たくさんいるので移動させました)。

下級武士なのになぜ薩摩藩で出世できたのか?

さて、ここからいよいよ西郷隆盛の具体的な動きを追っていきたいのですが、生い立ちを見ていると生まれも育ちもかなり下のほうの家柄だったようです。

ここでいきなりなぜ出世できたのか?という疑問が湧きましたが、これは薩摩藩の藩主島津家のお家騒動に原因があったそうです。これは初めて知りました。

島津家を揺るがした「お由羅騒動」

幕末の頃の薩摩藩と言えば何と言っても島津斉彬(しまづなりあきら)が名君として有名ですが、この斉彬が藩主になる経緯に西郷隆盛出世のポイントがあったようです。

詳細は省くとして、元々斉彬は長男であり次期藩主としての正当なる地位にあったようですが、1850年(隆盛21歳頃)頃、これを側室のお由羅という人が自分の子供を次期藩主にしようとして、藩が二分し、斉彬派の藩士に何人かの切腹者を出しています。

正統後継者である斉彬側の旗色はかなり悪かったようであり、切腹者の中には隆盛の父吉兵衛が使用人として奉公していた人もいたようです。この事件により斉彬側の大半は失脚しかけますが、結局他の有力藩主の働きかけもあり斉彬は無事藩主の座についています。

この事件に隆盛はかなり影響を受けたようですが、おそらくライバル側の藩士の大部分がこれで失脚したでしょうし、西郷家の薩摩藩での立ち位置も少し良くなったと考えられ、若き隆盛も斉彬の目にとまったようです。

藩主問題解決も親と祖父を連続して亡くす

1951年この斉彬が薩摩藩の新藩主となりますが、翌年の1852年に西郷家は7月に祖父遊山、9月に父吉兵衛だけでなく、11月に母マサまで相次いでなくなるという不幸を迎えており、長男である隆盛がわずか24歳で家督を継ぐことを認められています(正式に継いだわけではない?)。

1854年、26歳を迎える時に隆盛こと吉之助は藩主島津斉彬の江戸参勤に随行していますが、中御小姓や御庭方という役を与えられていますが、要は常に近くにいる使い走りだったようで、名君斉彬のかなり近くで勉強することができたようですね。

おそらくこの影響はその後の考え方にも大きかったのは間違いありませんが、20代前半で兄弟7人と奥さん(24歳頃結婚していますね)を支える身、貧乏過ぎて奥さんは実家に連れて帰られたそうです(あらら・・・)。

斉彬の手足となり知識と人脈を作る

島津斉彬が藩主だったころはペリー来航(1853年)や幕府が財政面や後継ぎ問題で揺れるなど大変な時期でしたが、斉彬を始めとする諸侯達は、一橋家の慶喜(のちの十五代将軍徳川慶喜)を時期将軍につけ、弱体化していた当時の幕府の改革を試みていたようで、天皇家やそれをとりまく公家や味方になりそうな藩主たちと連絡を取り合い暗躍していたようです。

それらの連絡係となり密書などを運んだりするなど、手足となって動いていたの隆盛や同士の大久保利通のようで、この時期に各藩の有力人物やその他キーパーソンと人脈が作られていったと考えられますね。

島流しからの復活

少なくとも二回島流し(謹慎)に

これもあまり知られていないことですが、隆盛は順風満帆に出世したわけではないようで二回ほど島流し(遠島)のようなものになっています。

一度目は1858年(30歳の時)ですが、当時斉彬を始めとする薩摩藩は時の大老であり、安政の大獄や桜田門外の変で有名な井伊直弼の幕府からの排除を狙っていたようですが、この年の7月に主君である斉彬が急逝しています(安政の大獄があったころなので、もしかして暗殺?)。

その後それらの動きは幕府に黙認されていただけなのか露見し、後ろ盾を失ったせいもあるのか、薩摩藩を中心とする反幕府派の首謀者たちが証人としてかなり激しい追い込みをつけているようですが、斉彬死去の時に京都にいた隆盛たちは薩摩へ逃げ帰っています。

そこに幕府からの追及もあったようで、藩ぐるみで現在の幕府に対抗しようとしていた薩摩藩は隆盛たちを差し出さずに追っ手をかわすために彼を奄美大島に隠棲させ、名前も菊池源吾と変えさせています。

これが一回目ですが、藩が追放したり幕府に差し出していない点を考えると、薩摩藩は彼の使いどころがあると考えられ、隠しただけのようです。そこで二番目の妻(最初の奥さんは逃げられているので)である愛加那(あいかな)に出会い二人の子供をもうけています。

1860年に桜田門外の変で井伊直弼が死んだあと幕府の追及もゆるくなったのか、隆盛は京都で顔が利く人間が薩摩藩にあまりいないということで大久保利通などの進言などもあり、1862年に藩政に復帰していますが、新藩主の忠義の父であり藩の実権を握っていた、島津久光(忠教)は元々斉彬が藩主になった時に争った人物です。

久光との確執

二回の島流しは復帰してから半年後の1862年6月ですが、寺田屋騒動(薩摩藩過激派による討幕活動を公武合体派の久光の命で薩摩藩自身の手で粛清した)に参加していた志士たちを扇動したということで今度は徳之島に送られています。

この騒動に隆盛自身は参加していないようですが、このあたりは久光と少し行き違いもあったようですし、隆盛もこれ以前に彼に足して直球でものを言い過ぎていたようですね。一回目と違いこれはガチの島流し・謹慎です(笑)ね。

徳之島に送られた後は沖永良部島(おきのえらぶじま)に流されていますが、この処分はかなり厳しかったようで、西郷家そのもの財産が没収されており、兄弟たちはかなり困窮していようですね。ちなみにこの時に奄美大島に残した妻愛加那と二人の子供が久しぶりに彼に会いに来ているようです。

大久保利通の助言と藩士たちへの影響力

1864年2月いよいよ西郷隆盛が二度目の復活をはたし薩摩藩へ戻ってきますが、藩の実権を握る島津久松の目的が天皇を中心とした諸侯による中央集権化を目指そうにも、それを実行できる人材が不足したこともあり、再度利通たちの助言により復帰します。

ただ、これは京での薩摩藩の評判がかなり悪かった(薩摩藩が攘夷派をうたいながら外国と取引をしていた)のを改善したかった狙いもあったようで、隆盛ならそれができると考えられていたのでしょう。おそらく下級藩士たちにはかなりの影響力があったのだと考えられます。

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明治政府でのポジション

幕末の騒動を経ていよいよ地位を与えられる

1864年に復帰した後は、長州征伐や薩長同盟、戊辰戦争などにその名前が出てきますが、このあたりはみなさんも知っているように、薩摩藩の有力者として活動しています。

しかしながら島流し後は知行は没収されたままのようだったので、藩でのポジションはあくまで他の藩への顔がきいたり、下級藩士への影響力が大きい外交員みたいなもんだったのでしょうか、要所で名前は出てくるので、ある程度藩の有力者から後ろ盾もあってのことでしょう。

1868年に薩摩藩の念願の王政復古の大号令がなり明治維新となりますが、その功により隆盛は政府より2000石を与えられており、朝廷からは正三位の官位を与えられています。

もしかしたらすでに薩摩藩での認識以上に、全国の有力者達の間で評価されていたのでしょうね。このあたりは天皇や公家さんたちとの繋がりもきいていたような気がします。

1870年(明治3年)には版籍奉還や廃藩置県を経て大参事(副知事)の役所についていますが、このあたりの一気の昇進ぶりは新政府の意向が大きかったのでしょう。ただ個人的にはこの時、藩主や薩摩藩で要職についていた人たちからの反発がなかったのか気になります。

何てったって6年前は日本の隅っこにいましたからね。

いよいよ政府へ参加

明治維新後しばらく隆盛は地元薩摩で自国の充実に努めたようですが、新政府には参加していませんね。そして最初は岩倉具視や大久保利通の要請があったものの、首を縦に振らなかったようですが、1871年に弟西郷従道の説得もあっていよいよ上京しています。

この道中土佐などに寄って兵力を集めてから東京に到着していますが、まだ政権が不安定なのでしょうか、ある程度の保険が必要だったのでしょう。

この兵力を盾に内閣の一新が行われ、隆盛は参議の地位についています。

こういったエピソードを見るとすでに藩士だけではなく、他の藩の有力者たちからもかなりの信頼と人望があったことが想像できます。

廃藩置県で不満はでなかったのか?

ここまではある程度聞いたこともあるような話なのですが、個人的には一つ疑問があります。それは廃藩置県よりかつての藩主たちからの反発はなかったかということです。

版籍奉還より今までの政治体制は改善されたり、今までの藩政ででた借金などはすべて中央政府が引き受けた形になりましたが、それぞれの藩主はいまだそれぞれの藩のトップに存在し、既得権益は守られた形となりました。

ただ新内閣が立ち上がり廃藩置県まで行くと状況は一変します。江戸幕府の時代は中央に幕府という存在があったものの、実際の運営は藩ごとに委任されていた形となります。

それが一気の中央集権化により何をするにしても政府の一存によりどうとでもなる状況となったわけです。となると今まで藩主だった人たちから文句はでなかったのか?と思いますよね。

これが新政府に各藩の実権を握っていた藩主たちが連座していればなっとくなんですが、顔ぶれをみるとほとんどが幕末の藩士であり、西郷隆盛も元は下級武士で、ここが疑問なんです。

彼らはどこへ行ったのでしょうか?

このあたりを調べてみた結果分かったのは、この廃藩置県が少しクーデターに近かったということで、それを押さえたのが西郷隆盛達が集めていた兵力であったり、内閣で太政大臣となった公家の三条実美だったようです。

兵力も揃えられて、元々藩主たちより格上であった公家さんからこれで行きますと言われては後の祭りでどうしようも無かったわけですが、その代わりに藩主の多くは新しい身分層である華族として厚遇され、新しい時代の新しいステータスで納得したようです。

ただ薩摩の殿様島津久光だけは”こんなの大久保や西郷から聞いてねーぞ!”と不満が爆発し、地元で怒りの花火の打ち上げをしまくったそうです(なんじゃそりゃw)。

征韓論とは

陸軍大将西郷隆盛

征韓論を前に少し重要になってくるのは岩倉具視使節団ですね。

1871年(明治4年)に新政府に名前を連ねた隆盛ですが、この内閣は行動が早いです。岩倉具視をはじめとする他の内閣メンバー(木戸孝允や大久保利通、伊藤博文など)の何人かは外国との同盟締結のために外国に旅立ちますが、国内で彼らの留守をあずかったのが西郷隆盛達だったそうです。

隆盛は参議としての地位もありますが、廃藩置県の時も兵を率いていたように主に軍隊をまかされており、元帥や陸軍大将としての地位にもあったようです。

江戸幕府時代とは違い一か所に兵力が集中すると、新政府が立ったばかりで、軍事クーデターの可能性もありますが、それを任せられる人物としての信用もあったのでしょう。

西郷たちは留守を守りますが一つ問題が起こりますが、それが朝鮮問題です。

強気の朝鮮(李氏朝鮮)

西郷たちを迎え新政府となった日本ですが、当然お隣の朝鮮(李氏朝鮮)にも国としての文書を送ります。ただ、この時時期が悪かったようです。

当時挑戦も中国や日本と同じように欧州の各国の進出に悩んでおり、鎖国政策と攘夷の政策をとっていたようで、意気揚々な状態だったようで、江戸幕府から明治政府に変わり文書の形式も変わっているということで国書の受け取りを拒否されます。

それどころか、”野蛮な日本人と接するものは処刑する”といったおふれまでだしていたようで、使節は侮辱されていることをかえって報告します。

1873年にこの問題がいよいよ捨て置けないということで、明治政府も朝鮮問題を解決しなければということで議論になったと言われますが、武力よる解決を主張したのが板垣退助であり、隆盛はこれに反対して、まずは自分が使節として朝鮮に渡り交渉することを主張したと言われています。

西郷隆盛と言えば征韓論ですが、ドンパチやろうとしたのは板垣退助だったとは意外です。

岩倉具視使節団などからの派遣の反対

さて、この対朝鮮使節団ですが、西郷隆盛派遣で三条実美などの承諾ももらったものの、ちょうど岩倉具視使節団が長い外遊から帰国するということで、明治天皇は彼らがかえってから相談するようにと言ったそうですが、なんと彼らの反対にあいます。

おそらく朝鮮の問題はあくまで欧州の国との問題と比べると小事であり、先に国力を発展させることを優先したかったのでしょうが、盟友大久保利通にも反対されているので、国内組と海外組では考え方に違いがあったのでしょう。

隆盛は世論に乗り立ったのでしょうが、使節団組はあくまで国益と将来を優先ということで、新たな時代に向かって進み始めた内閣の亀裂が生まれます。

結局この問題は賛成派と反対派で二分し、征韓論を主張した西郷隆盛をはじめ、板垣退助や後藤象二郎など有力どころをはじめ、官僚600人あまりも辞任するという大事件となります。

西南戦争の顛末

私学校の運営

1873年に征韓論問題を原因として下野した隆盛ですが、故郷鹿児島に帰った後は県政にかかわらず従兄弟であり県令(知事)の大山綱良の協力もえながら、私学校の運営を行っていたようです。

西郷辞職に伴い多くの官僚が辞職して血気盛んな若餅たちが鹿児島に帰郷していたので、彼らを無職のまま放置しておくわけには行かず、それを統制しておく目的もあったようでこれは納得できますね。

ただこの学校も、隆盛が帰郷後悠悠自適な生活を送っていたことを考えると、直接かかわるというより、あくまで立ち上げに関わった名誉校長的な意味合いが強いのでしょうか。

力を持ち始めた私学校党と廃刀令

そしてこの私学校ですが、当然ただの学校ではなく軍事訓練や武道や教養をつけるために作ったことは想像できますし、軍隊学校としての側面もあったでしょう。県からの補助だけではなく、警備や治安活動によりその運営を成り立たせていたのだと思いますが、次第にこの勢力は鹿児島の県政にはなくてはならないものとなり、力を持ち始めたようです。

しかしここで問題が起こります。それが1876年に政府から発表された廃刀令です。

元藩士やその子息たちで構成されていた私学校の生徒たちは反発し、全国各地で同様の反発や反乱があったと言われています。元々血気盛んな若者たちであり、自分たちのアイデンティティである刀を奪われることになるので爆発寸前となります。

政府が西郷隆盛の影響力を警戒

この私学校の影響力と武力は県だけでなく中央政府も把握していたでしょう。またこの学校には大人物西郷隆盛が関わっていることも知られていたと思いますので、政府は隆盛の動きを調査し始めます。

政府から人間が送り込まれますが、いよいよ鹿児島では緊張が高まり、捕縛者や自首する人間も現れます。その内容を聞き及び隆盛も政府に警戒されていることを知るわけですが、これが引き金となり、いよいよ生徒たちによる爆薬などの強奪事件がおこります。

これが西南戦争の始まりのようですが、どうもこの経緯を見ると反乱は西郷隆盛主導で行われたというよりも、彼が運営に携わっていた学校の生徒が原因で起こったことがよく分かり、隆盛はそれに付き合わざるを得なかったという印象を受けます。(西郷が視察されるのを刺殺されると勘違いした生徒たちがその護衛のために勝手に周りに集まってきたという説もあるそうです)

ここまでの流れを見ていくと確かに西郷隆盛が政府に弓を引く理由が見当たりませんよね。恐らく明治維新は薩摩の力によるものだという生徒たちの自負がこの戦争を突き動かしたのでしょう。

最後

結局反乱軍の総大将として担ぎ上げられた隆盛ですが、最後は銃弾にあたり、もはやこれまで諦め自決して果てたようです。

1877年西郷隆盛が享年51歳(満49歳)の生涯でしたが、直接対峙したわけではないものの盟友である大久保利通達明治政府の命によってその最後を迎えたのは寂しい話ですね。

かつての幕末の志士たちだけでなく、当時の天皇であった明治天皇も彼の死を惜しんだと言われています。

まとめ

以上「西郷隆盛」について調べてみましたが、かなりの大作となりました(笑)。あくまでどんな人物だったのかと思って調べたのであり、結構カットしたエピソードもたくさんありますが、もし鹿児島の地が東京から近く、大久保利通達との直接の対話ができれば、もっと事態は好転したように感じます。

ところで犬はどこで出てくるんだろうと、最後にふと思いました(笑)。

西郷隆盛の家族たち

最初はこの記事の冒頭に書いていましたが思った以上に長くなったので、本編とはあまり関係ないということで記事の最後に移動しました。

兄弟

西郷琴(市来琴)

1831年生まれで隆盛の三年後に生まれた妹であり西郷家の長女となります。1852年に父と母、祖父が相次いで亡くなった時は家計がかなり厳しかったようですが、それを吉之助とともに支えたのがこの人だったようです。

親戚の市来正之丞(いちき しょうのじょう)との間に三人の息子をもうけて、1913年(81歳)まで生きたそうです。ただ長男は戊辰戦争、次男三男は西南戦争で亡くなっており、この血筋は途絶えていますね。

西郷隆広(通称:吉次郎)

1833年生まれ(隆盛の5つ下)の次男。

西郷鷹(三原鷹)

西郷家の次女。生年は1837年もしくは38年とも言われています。20歳半ばで早逝したそうです。西郷家より家格が上の薩摩藩士三原伝兵衛(みはらでんべえ)に嫁いで一男一女をもうけています。

西郷安(大山安)

1839年生まれの三女。父吉兵衛の弟の子である大山成美(おおやませいみ)に嫁いで一男一女をもうけていますが、長男辰之助は西南戦争で亡くなっています。(この時点で西郷どん身内死なせすぎだと感じるんですが・・・)

この安の主人の大山成美のすぐ下の弟は後の陸軍大将大山巌(おおやまいわお)です。

西郷従道(通称:信吾)

1943年生まれの三男ですが、西郷隆盛が”大西郷”と呼ばれていたのに対して、”小西郷”と呼ばれていたもう一人の西郷さんです。さすがにこの人の存在は知っていましたが、年は15歳も離れていたんですね。

西郷従道(さいごうつぐみち)という名前で知られていますが、本来は従道は(じゅうどう)と読むのが正しいそうです。ただこの名前は諱(いみな)だそうで本名は隆興(たかおき)というそうですが、どれが正しいのか何かわけが分からなくなってきますね(笑)。

西南戦争で敗死した長兄隆盛に対して、従道は明治政府で活躍し内務大臣などの要職を務めたリ(内閣総理大臣の候補でもあったそうです)、陸軍大将、ついで海軍大将なども務めるなど軍部の重鎮としても活躍しています。

エピソードを見ていて気付きましたが、なんと競馬の日本人馬主第一号だそうで、しかも愛馬の「ミカン」号に乗ってしっかり勝っているそうです。

西郷隆雄(通称:小兵衛)

1947年生まれで隆盛と19歳離れた末弟となります。本名は隆雄(たかかつ)、通称は小兵衛(こへえ)というそうですが、兄従道が明治政府で出世をしていったのに対して、この小兵衛は一度も出仕することなく西南戦争で亡くなっています。

一番下の弟とということで隆盛が可愛がっていたそうですが、兄弟・親戚が西南戦争で死に過ぎですね。

妻と子供

伊集院須賀

隆盛(吉之助)の最初の妻であり近所に住んでいたようです。1852年隆盛24歳の時に結婚していますが、結婚後2年で不憫に思った彼女の父親により離縁させられています。子供がいたという記録はありませんね。

1832年生まれということは分かっていますが、彼女の最後は不明です。

愛加那

1837年生まれ。奄美大島時代の1859年隆盛31歳、愛加那(あいかな)22歳の時に結婚しており、地元の娘となります。

一男一女(長男菊次郎、長女菊)をもうけていますが、1862年1月藩命により隆盛はこの島を離れており、離れ離れとなります(薩摩藩の島妻制度により島の娘を連れて帰ることができない)。

1902年(65歳)まで生きたことが分かっていますが、生涯のほとんどを奄美大島で過ごしたようです。

西郷菊次郎

1861年に愛加那が産んだ長男。

8歳の時に西郷本家に引き取られており、12歳の時アメリカに約3年間留学。西南戦争は負傷して片足を失いながらも生き残り、台湾県支庁長などのほか京都市長などを勤めており、その子孫は現在も続いています。1928年に67歳で没。

西郷菊草(大山菊子)

愛加那が1862年に産んだ長女で、菊と言われていたり菊草(きくそう)と言われていますが、1862年1月に隆盛が奄美大島を離れているので、当時はお腹にいたことになりますね。

12歳の頃に菊次郎に遅れて西郷本家に引き取られた後は隆盛の従兄弟である大山誠之助(大山巌の弟)と14歳の時に結婚して4人の子供をもうけていますが、旦那の借金や暴力に長年苦しんだようで、最後は兄の菊次郎に保護され1909年(47歳)に京都で亡くなっています。

岩山糸(西郷糸子)

1843年生まれ1922年没。

1865年隆盛38歳の時の三度目の結婚となり、糸は再婚となります。隆盛との間に三人のお子の子を設けており、愛加那の子供である菊次郎と菊草を養育したのは彼女のようですね。

西郷寅太郎

1866年生まれでが産んだ長男。西南戦争時は11歳だったが、後に勝海舟などの働きかけによりドイツへ12年間留学し陸軍で活躍したそうです。また西郷隆盛の名誉回復により最終的には侯爵になっています。

1919年にスペイン風邪が原因で52歳でお母さんより先に亡くなっていますね。

ちなみに奥さんは武豊ジョッキーの親戚みたいですが、浪費癖があって寅太郎の死後財産もろくに残っておらず家から出されたそうです。

八人の男子と四人の女子を残していますね。

西郷午次郎

1970年生まれでが産んだ次男。牛次郎(うしじろう)かと思ったら午次郎(うまじろう)というみたいですね(笑)。どうもこの兄弟たちは生まれた時の干支から名前がきていますね。

叔父西郷従道や兄西郷寅太郎達とは違い、日本郵船で働いたと伝わっています。1919年に兄寅太郎が亡くなった後は75歳になる母の糸や寅太郎の子供たちを引き取り面倒をみたそうです。

1935年に65歳で没。三男一女をもうけています。

西郷酉三

1873年生まれの糸が産んだ三男ですが、1903年に結核が元で亡くなったことしか分かっていないようです。

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