「井伊直政」と徳川四天王:おもしろ戦国武将列伝(4)

井伊直政

井伊と言えば直虎ではなく”井伊直政”!

2017年もあっというまに12月を迎えましたが、NHKで放送されている今年の大河ドラマ「おんな城主直虎」(主演:柴咲コウ)もいよいよ最終回が近くなってきました。

ただ、以前の記事でも書いたように”こんなの戦国大河じゃない!”ということで大河ドラマ史上最速でリタイアしてしまったこの”おんな城主”ですが、つい先日のテレビの番組表を見ているとこのドラマのタイトルのところに”信長が・・・(正式なタイトル忘れたw)”の文字があったので、信長マニアとしては捨て置けず、最近どうなってるのかな?と思い見てしまったわけですが、ら相変わらずの内容で”時間返せ!”という内容でした(笑)。

今回、大河ドラマのこき下ろしが本来の目的ではないのでこの辺にするとして、大河ドラマ「おんな城主信虎」は主人公が柴咲コウ演じる”井伊直虎(女性です)”なんですが、このドラマには今を時めく”カメレオン俳優”菅田将暉(すだまさき)君が出演しています。(僕も好きな役者さんです。)

彼は主人公直虎の従兄弟(井伊直親:直虎の許嫁とも言われています)の子である”若武者”井伊直政(いい なおまさ)役を演じていますが、ドラマの中では主人公ではなくあくまで脇役の一人です。

ただ、歴史に詳しい方や僕のようにゲーム「信長の野望」好きの方なら”なぜこちらが主役じゃない?”と思われる方のほうが多いでしょう。確かに大河ドラマに取り上げるほどのネタ満載の武将ではありませんが、武将としての格で言えばかなり上位にランクされるべき武将です。

そこで今回は、最近大河ドラマの影響で直虎のほうが知名度が上がってしまっているので、この「井伊直政」がどんな武将だったのか、僕の勉強の意味も込めてフォーカスしてみたいと思います。

スポンサーリンク 

徳川家臣団の筆頭格

徳川軍団と言えば今さら説明するのもちょっと気が引けますが世の中色々な人がいるので簡単に書いておきますと、江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわ いえやす)を初代とする将軍家や大名のことを指します。

ご存知のように最初は近所の名門今川義元(いまがわ よしもと)に従属する形で歴史の表舞台に登場した後、義元亡きあとは織田信長や豊臣秀吉に従い地盤を固め、最後は天下を平定するわけですが、当然家康ひとりの力で天下をとったわけではなく、そこには有能な家臣団がいたわけです。

その中でも有名で家康の手足だったのが、参謀格である本多正信や徳川四天王と呼ばれた四人です。そしてこの四人の一人こそが井伊直政なのです。

徳川四天王とは

酒井忠次(さかい ただつぐ)

僕はいつも酒井忠世(さかい ただよ)と間違えてしまいますが、一門ではありますね。1627年生まれということもあり、徳川家康(1643年生まれ)より16歳年長であり、父親の松平広忠から仕えてきた宿老になります。

ただ最古参でありながら後の待遇面では他の三人に差を開けられており、家康の嫡男松平信康の自刃事件の恨みだとか、隠居が少し早かった(1588年)という説もありますが、結局、のちに酒井家からは大老もでており、幕府の中枢を担っていますね。

本多忠勝(ほんだ ただかつ)

1548年生まれ。徳川家において武の面では最強と謳われた武将です。

政治面や知略面ではそれほどエピソードはありませんが、五十七度のいくさで傷一つ負わなかったと言われる豪傑であり、”家康に過ぎたるもの”と言われたほどの武将で、信長や秀吉からも賞賛されています。

蜻蛉切りなんかも有名ですねし、関ヶ原の戦いでは

指揮官としてよりも個の武に優れていたタイプのようですね。同門の本田正信とはあまり仲がよくなかったみたいです。

その後忠勝ら武闘派の本多家そのものは残っているものの酒井家ほどの活躍はしていないようですね。

榊原康政(さかきばら やすまさ)

1948年生まれですが、前述の二人とは違い家康の小姓からの叩き上げです。元々家臣団を引き連れていたボンボンではないので、それこそ家康と行動を共にしていきながら活躍し、出世していった努力家なんですが、部隊を率いれば本多忠勝以上、井伊直政と同格と言われたほどの武将です。

他の三人に比べると知名度の面では落ちますが、徳川家の後継ぎだった二代目秀忠が関ケ原遅参の際、家康との面会を取りなしたのが秀忠の傅役であった康政と言われており、家康や家中からどれだけ信頼されていたかが分かるでしょう。(彼の兄は長男だった信康(後に誅殺)の傅役をつとめていることなどからも家康からかなり信頼されており人格者だったことが分かります。)

その後秀忠も彼に恩義をかなり感じていたようで、親子二代にわたって信頼された珍しい武将ですね。

本多忠勝とは同い年で親友だったようで、井伊直政ともお互いを認め合っていたほどの仲だったそうですが、かなりの人物だったのでしょう。

井伊直政

今回の記事の主役ですが、1561年生まれと四天王の中ではダントツに若いですね。元々井伊家の主流血統ではありますが、あくまで国人衆であり土豪の一人に過ぎなかったのでしょう。

紆余曲折があって1575年(14歳の時に)家康の小姓からその武将生活をスタートしていますが、おそらく譜代の家臣を持たなかった身としては徳川家で一番出世した武将でしょう。

家康の寵童説がありますが、三河以来となる譜代の家臣もいる徳川軍団の中でも異例とも言える成り上がりですから、かなりのお気に入りだったのは間違いないと思います。

戦場でたくさんの活躍をして出生したあとは四天王の中でも大きな領土(彦根藩)を与えられ、井伊家からは四人の大老(あの井伊直弼)などを輩出した名家となっていまし、譜代大名としても一番になっています。

すべてはこの直政から始まっているわけですね。

井伊直政に関するエピソード

井伊の赤備え

井伊直政と言えば何と言ってもこの”赤備え”ですが、元々家臣をほとんど持っていなかった直政には家康の肝入りで家臣団の編成が行われたようです。よって武田の旧家臣団などはこの井伊直政の配下に喰わられたこともあり、旧武田軍の”赤備え”の名将山県昌景(やまがた まさかげ)の旧家臣などが多かったことも理由の一つだそうです。

武田軍の赤備えと同じく、井伊の赤備えも敵を震え上がらせていきます。

ただ、この井伊直政の軍団の編成に関しては家康の意向がかなり入っていたそうで、家臣の人事権まで直政がもたず、家康が何から何まで面倒を見ているのは少し異常とも言えますね。

小柄な美男子

”井伊の赤鬼”とまで恐れられた直政ですが、かなりの美男子だったそうで、家康のお気に入りだったのも納得です。小柄だったという記録は色々なところにありますが、秀吉の人質として家康の所に送られてきた大政所(秀吉の母親)や侍女たちがかなり色めきたったそうです。

ただ、その美貌とは裏腹に戦場では物凄く強く、また味方にも厳しくかなりの体育会系上司だったのは意外で、軍律も厳しく逃げ出したかった部下も多かったようです。

口数も少なく背中で物を語るタイプだったようで、誤解されやすいタイプだったのかもしれませんが、旧武田軍団など元々敵だった人間や上司だった人間をぽっと出の人間が率いるのであれば厳しくするのはしょうがなかったのかもしれませんね。

武力とともに際立つ政治力

直政が家康軍団に加わったのは若いせいか他の四天王に比べて遅く、活躍するのも秀吉との戦いである小牧・長久手の戦い以後になりますが、戦で活躍しまくったのもさることながら注目されるのはその政治力です。

本多忠勝や榊原康政といったどちらかと言えば戦に長けた武将が多かった徳川軍団の中で直政は関ヶ原の戦いなどで巧みな調略活動を行い、西軍からかなりの主力武将の寝返りを実現させており、武力だけではなく政治力や外交手腕も目立ちます。

戦後処理では西軍大将の毛利輝元との講和や主力であった島津家の懐柔なども行っています。

さらに彼の凄いところはこの関ヶ原の戦いで大将格クラスでありながら槍をもってぶん回して活躍しているところですね。(ただその時の鉄砲傷が原因で亡くなります)

江戸幕府の礎

最後に井伊直政についてはある程度の知識は持っていたつもりだったのですが、改めて調べなおしてみると1561年に生まれて1602年に亡くなっていることを見るとたった41歳で亡くなっており、かなり活躍期間が短かったにも関わらず、高い地位まで登りつめているのが分かります。

色々な資料を見るだけだと、その年齢や関係性などはつかみにくいものですが、15歳前後で小姓からスタートした少年が30代後半には家臣団のなかでも幹部クラスに昇進しており、尚且つ先頭に立って数々のプロジェクトを成功していたとなると、徳川軍団の中でも一番のエース格であったのでしょう。

世間のイメージだと本多忠勝や本多正信あたりがよくクローズアップされたりしますが、これほどの出世を遂げていることや、井伊家が大家として残ったことを考えると、やっぱり今回の大河ドラマは「井伊直政」が主役でも十分ストーリーとして楽しめたような気がしますね。

関ヶ原の戦いの戦中や戦後処理でも大車輪の活躍をしているのに世間的に地味な印象でもっと日のあたるべき武将であったと言えるしょう。


スポンサーリンク

フォローする