独眼竜「伊達政宗」は戦国きってのDQN武将:おもしろ戦国武将列伝(4)

伊達政宗

エピソードと世間のイメージが真逆の人気武将

かつてNHK大河ドラマで放送された「独眼竜政宗」(1987年)は大河ドラマ史上最高視聴率となる平均39.7%を記録したお化けドラマですが、そのモデルとなった戦国武将(大名)が伊達政宗です。

その影響もあってか、アラフォー世代より上の人であれば、彼が具体的にどんなことを知らなくても、その名前を知らない人はほぼいないでしょう。

主演はいまやハリウッドで大活躍する渡辺謙さんで、この作品が出世作とも言えますが、リアルタイムで見ていた僕のような世代には、やはり

伊達政宗=ケン・ワタナベ

このイメージがかなり焼き付いています。

また、大河ドラマ以降に生まれた若い世代でも、「戦国無双」などのゲームやアニメで政宗はかなりいい扱いをされている武将ので、ゲーム経由でハマった方も多いのではないのでしょうか。

あらゆる世代に対して認知されているということで、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康までとはいかなくても、知名度だけであれば彼らの次のグループ、武田信玄や上杉謙信と肩を並べるぐらいのポジションでしょう。

東北の田舎大名、それも戦国時代の最終盤に出てきて、戦国時代の主役であった織田信長と直接の絡みがなかったことを考えると異例とも言えますね。

ただ、”一般的にはイメージのいい”伊達政宗ですが、ネットの歴史好き・マニアの方たちにはこの政宗をさほど推している声はほぼ聞きません。

それどころか”DQN四天王”とラベリングされているほどの、とんでもないエピソードの持ち主で、破天荒を通りこして頭がおかしいのでは?と言われているほどです。

そこで今回はよく言えば”やんちゃ”、悪く言えば”頭がおかしい”エピソードを持つ伊達政宗の、教科書では習わないその人物像に迫ってみたいと思います。

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「伊達政宗」のプロフィールと一般的なイメージ

それではまず本人が履歴書に書きそうな公的なプロフィールとイメージを並べてみたいと思います。

プロフィール

生没年:1567年9月5日~1636年6月27日(享年69歳)

生家:伊達家十七代当主

父:伊達輝宗 母:義姫(最上義守の娘で義光の妹)

出羽国伊達家十六代当主伊達輝宗の長男として生まれています。母義姫(よしひめ)は正室で近隣のライバル最上家出身で正室の子となります。

一般的に良く知られているエピソード

  • 幼少時、天然痘を患ったため右目を失う。のちに独眼竜の異名をとる
  • 10歳(1577年11月)で元服し、17歳(1584年10月)で家督を継ぐ
  • 1585年小手森(おでもりじょう)城を攻めた際、二本松義継に父輝宗が人質にされる。救出に向かった政宗は父輝宗ごと鉄砲で打ち抜き全滅させる
  • 1590年豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏とどちらに着くか悩み遅参するも、秀吉に許される。この時期に母義姫と弟小次郎から毒殺されかけたことを理由に、小次郎を惨殺する。母とは疎遠になる
  • 1593年文禄の役(朝鮮出兵)のため上洛途中の伊達軍の派手で豪華な出で立ちから、市民の間で噂となり”伊達者”という言葉が生まれる
  • 1613年、ルイス・フロイスとともに支倉常長をスペインに送る(慶長遣欧使節)
  • 三代将軍徳川家光からは伊達の親父殿と慕われ、死の三日前には家光自らが見舞いに来た

よく知られているエピソードとしては上記のようなことが有名ですね。

家督を継いだのは1584年ということはすでに織田信長が亡くなっており、天下の趨勢が大方決している時期ということになります。

父親ごと敵を撃ち抜いたり、毒殺しようとした弟を殺したエピソードなどからもすでに普通の武将ではなかったということは感じ取れます。

他には自ら裏で一揆を扇動していたなんてエピソードも有名ですね。このあたりはドラマでも描かれたエピソードになります。

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さて、ここからはちょっと変わった(ぶっ飛んだ)エピソードを取り上げていきたいと思います。

政宗53歳 城内でのちの大老に相撲を仕掛けて結果負ける

これは伊達政宗が53歳の時のエピソードと言われるので、おそらく1620年頃のお話となります。

当時の53歳と言えば、織田信長が敦盛で”人間五十年~♪”と謳ったようにすでに老齢の域になります。まぁ言ってしまえばすでに”じーさん”の域です。

しかも1620年頃と言えばすでに大阪夏の陣から六年も経っており、太平の世を迎えはじめた頃なので、時代は武官から文官の時代へシフトし始めた頃ですね。

ある日江戸城内を歩いていた政宗さんは、場内で酒井忠勝という人と顔を合わせます。

酒井家というのは榊原や大久保などとならんで徳川譜代の家臣であり、実際にこの酒井忠勝ものちに老中、最終的には政務上の最高権力者である大老まで登りつめるほどの人物です。

そしてこの忠勝は時の二代将軍である徳川秀忠と面会した帰りだったようなんですが、何を思ったのか政宗が突然

”相撲を取ろうぜ!”

とけしかけ掴みかかります。

将軍に面会した帰りということで、ビシッと正装しており、尚且つ政宗の二十歳も年下である忠家はかなり面食らったようですが、この騒ぎを聞きつけどんどん人が集まってききます。

しかも同僚の井伊直孝が外野からけしかけたことで、しょうがなく政宗と相撲をとることになった忠勝でしたが、ただのいい所のボンボンではありません。

見事政宗じーさんをぶん投げて勝利します。

政宗は投げられた忠勝に対し、”おぬし中々相撲が強いやつだな”と賞賛したそうです。

ただ、この逸話は政宗が徳川譜代の臣の肩を持たせたという説もあるようですが、他のエピソードなどを見る限り、僕はただ普通にやって負けて、負け惜しみ説だという気がしますね(笑)。

遅刻、コスプレ、口から出まかせ、磔持参

相撲のエピソードから若干さかのぼりますが、伊達政宗の名前が全国的に知られ始めるのは豊臣秀吉の関東征伐の頃、1590年頃からになります。

すでに日本の西半分はほぼ手中におさめ、秀吉の全国統一最後の仕上げとなったのが、関東の北条氏の討伐です。

当然、すでに東北の有力大名だった政宗の元にも参上せよとの要請が来ます。

当時は臣下の関係にあるわけではなく、もし参上しなければ次の標的が自分たちになるだけどいう状態なのですが、この要請に政宗はすぐには応じませんでした。

当時の北条氏の居城である小田原城は難攻不落と呼ばれたほどの要塞だったので、政宗たちの動向次第では結果は分からなくなるので当然と言えば当然だったのですが、そこは戦上手で実戦に次ぐ実戦で鍛えられていた秀吉や家康たちなので、北条氏など敵ではありません。あっさりと攻略してしまいます。

これで危うくなったのが、日和見していた政宗たちだったのですが、いつまで経っても態度を保留しているようでは次に攻められるのは自分たちです。遅ればせながら関東の秀吉の元へ現れることになります。

そして言い訳をします。

遅れてしまった以上はもう秀吉にどうされても仕方がなかったのですが、なんとここで政宗は知恵を絞り、元祖傾奇者の秀吉の好みをくすぐるアクションを起こします。

それが死装束でした。

ドラマなどでは全身白い着物に身をまとうという描き方がされていることが多いのですが、調べてみると甲冑の上に白い陣羽織を羽織るなどという情報もあり、具体的な状態についてはここでは分かりません。

まぁ、おそらく死んで棺桶に入れられるような恰好で登場したであろうことが想像できるのですが、この”コスプレ”に感心したのが秀吉です。

一部所領は減らしたものの、取り潰されてもおかしくなかった状況を見事政宗は乗り切ることになるのでした。

そして、さらに問題はここからです。

秀吉の要請に応じなかった、参戦が遅れた大名が東北にはたくさんいたのですが、これに対する仕置きが行われます。いわゆる奥州仕置きと呼ばれるものですが、当然政宗のようにすべての大名が政宗のようにうまく乗り切ったわけではありません。

結局ほとんどの大名が秀吉の仕置きにより、取り潰しなども行われその勢力図が完全に変わってしまいます。

取り潰された大名の家臣や領地の者たちは不満を抱き反乱・一揆が起こります。秀吉も討伐軍を編成しこれらの討伐にあたります。

ところが問題はまた起きます。

なんとその一揆を裏で操っていたのが政宗ではないか?という疑いが出てきます。

しかも単なる疑いだけではなく、政宗がその一揆を行っていた人物に送っていた書状が出てきます。絶体絶命な状況なのですが、政宗さんここでも天才的な対応をします。

まず、参上に当たっては再び死装束で町に現れます。しかも今回は前回とは違い、死装束に加えて金ピカの磔台を自分で背負って登場し、世間の注目を集めます。

結局秀吉も問答無用で処罰するわけにはいかなくなり、申し開きの場を設けるのですが、問題は政宗直筆の書状です。

そこでまた天才的な言い訳をします。

”うちの書状は針で花押(サイン)に穴を空けているはずなので、穴がもし空いてないならそれはニセモノでっせ”と

イヤー凄いです(笑)。

この穴については情報によると他の書状には一切穴が空いていなかったようなので明らかに口から出まかせだったようなのですが、結局、政宗は秀吉の怒りを上手くいなして、再び絶体絶命の危機を政宗は切り抜けることになりました。

ただ、この口からでまかせのような嘘も、秀吉側はなんとなく把握していようで、許されてはいるものの奥州仕置きにより政宗が本来得るべきだった領地が減らされています。

おそらくこの時点で政宗を殺してしまうと、東北が大混乱に陥るという存在になっていたというのはあったのかもしれませんね。

囲碁の喧嘩が原因で絶縁状

小田原城参戦に遅参した政宗でしたが、それをとりなしたがのちの五奉行のひとりである浅野長政と言われています。

長政は妻が秀吉の正室ねねの妹ということもあり、かなり豊臣家の中でも秀吉に近い人物だったのですが、政宗の秀吉への申し開きが成功して以降、長政が東北の戦後処理を担当したことにより両者はかなり仲良くなったそうです。

伊達家の豊臣家への窓口はこの長政に一本化されます。

ところが朝鮮出兵などを挟んだ三年後の1593年に浅野家に対し、絶縁状を突如送り付けます。

内容は

  • 知行返上の書状をとりあえず書いたけど返してもらっていない
  • 朝鮮出兵で面目を潰された
  • 秀次事件の遅参を自分のせいにされた

かいつまんで言うとこういった内容なのですが、注目はもう一つ

  • 自分と仲の悪い蒲生氏郷や木村吉清と仲良くしている

といった内容なんですが、

子供かよ・・・

と言いたくなるようなことが書かれていたそうです。

今の時代だとTwitterで思わずこういったツッコミをしたくなるようなつぶやきをたまに見かけますが、それに勝るとも劣らないゴネっぷりわがままぶりです。

しかも一説にはこの仲違いしたと言われている原因がお互いが得意であった囲碁の対局中の口喧嘩にあると言われています。

火のないところに煙は立たずと言いますし、直接因果関係がなかったとしても、囲碁をめぐって喧嘩したエピソードがあったからこそこういう噂がったと考えられます。

しかも、この絶縁状以降、両家は約四百年間反目しあっていたと言われています。

この時伊達政宗はまだ26歳あたりなので若気の至りということは十分考えられますね。

(ただこの時浅野長政は47歳で20歳以上も上の年長者なんですがよね(笑))

味方の陣へ一斉射撃して全滅させる

かつて家督を譲られたばかりの十代後半の時に、人質になった父親ごと一斉照射して全滅させたエピソードのある政宗ですが、実はこの味方ごと攻撃というのは噂ではありますがもう一つあります。

それが、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣での出来事なのですが、伊達軍は大坂方の明石全登(あかしたけのり)とし対峙していた、水野勝成軍の神保相茂(じんぼすけしげ)隊に向かって後方から一斉射撃して約300名をほぼ全滅させたと言われています。

あくまで噂レベルの話ではあるのですが、伊達軍が水野勝成配下の人間を戦時中に手打ちにして馬を奪ったり、逆に待ち伏せされて馬を取り返されたという事実があるようなので、味方同士でなんらかのトラブルがあったことは間違いないと思われます。

また噂とは言っても実際に残った家臣たちが抗議した事実があるので、限りなく黒に近いようですね。

ただ、この一件に関しては、神保隊が総崩れになりそうで敵がこちらになだれ込みそうになったという申し開きなどもあり、特にお咎めもなく不問にされています。

また、この大阪夏の陣の際、伊達軍が適の主力である真田信繁(幸村)との激突をしきりに避けていたり、戦後その子息である彼の次男が伊達家(家臣の片倉重綱:政宗の右腕である片倉小十郎景綱の息子)に匿われるなど、何かとおかしな動きをしています。

その後幸村の子が成人し片倉家の家臣になったそうですが、当然幕府がこれを見過ごすわけにはいかず、問い詰められたそうですが、その子供はすでに亡くなっていて、幸村の兄の息子だよと乗り切ったそうです。

もうここまでくると、伊達家の悪だくみぶりと、問題解決能力には関心させられますね(笑)。

他にもぶっ飛びエピソードは満載

書き始めると中々長くなったので以上としますが、老人になっても相撲をけしかけたほどの政宗なので他にもエピソードは満載です。

晩年のエピソードだけでも

  • 細川忠興から家紋を強奪
  • 能を見に行くも終わっていたので、”またやって”と言っても聞かなかったので刀を取り出す
  • 二代将軍秀忠に料理をもてなす際に、側近が”毒見をしてから”と言ったところ、秀忠に聞こえるように”毒で殺すぐらいなら武力でぶっ殺すわ”と言い放つ(さすがに怒られる)
  • 三代将軍家光の前で酩酊し爆睡。過去の家康暗殺未遂を打ち明ける

とあり、他の戦国武将のエピソードは明らかに質が違います。

普通はとんでもない行動もその裏にはこういった狙いがあったという風に感心させられるものが多いのですが、政宗の場合は完全に何やるか分からないし、何を言い出すか分からない危険な人物にしか思えません。

ただの変わった人物だったのか、もしくはイケイケドンドンのDQN大名だったのか真実が分からないからこそ歴史は面白いものですね。

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