百舌鳥・古市古墳群49基が世界遺産に登録決定
すでにテレビなどをはじめとする様々なニュースメディアで報じられご存知の方も多いと思いますが、2019年7月6日に大阪府の「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」など49基がユネスコ(国際連合教育科学文化機関、UNESCO:United Nations,Educational,Scientific and Cultural Organization の略)の定める世界遺産に登録されることが発表されました。
これで日本では19件目の文化遺産の登録となり、自然遺産と合わせると23件目の世界遺産となったようですが、日本で陵墓の登録は初めてとなります。
今回は日本最大の古墳で”仁徳天皇陵”として知られる大仙(だいせん)陵古墳(もしくは大山古墳とも)を含む49基が古墳群として世界文化遺産に登録されたようですが、49基のうち29基が宮内庁の管轄する天皇家に関係のある陵墓だということで、登録名称についてはひと悶着あったとも言われています。
それぞれの古墳が学術的に誰の墓かはっきりしていないというのがその理由らしいのですが、古墳に名称がいくつかあるのも、大山古墳と呼ばれる前方後円墳に仁徳天皇が埋葬されているらしいというだけで、実際は誰が被葬者なのかはっきりしないからだそうです。
宮内庁がこれらの古墳に対する調査を頑なに認めないのでしょうがないのですが、今回はいい機会なので、”名前は聞くけど誰なのか全くわからない・知らない”仁徳天皇について、個人的な興味もあり調べてみることにしました。
(画像引用:無料写真サイト「写真AC」 Inushitaさんの写真より )
Contents
大山古墳(大仙陵古墳)とは
仁徳天皇陵として一般には知られます。
5世紀前半から中盤にかけられて築造されたと言われる日本最大の古墳。最大長840m、最大幅654m、最大高35.8m。
形状は前方後円墳(前方が四角で後方が円状ということなので下の地図のように、よくイメージされる鍵穴ののよう形状は実は上下逆になります)。
宮内庁が「百舌鳥耳原中陵」という名称で定め、被葬者は仁徳天皇陵としていますが、これには研究により様々な矛盾があると言われています。
住所は大阪府堺市堺区大仙町7。
(Google Mapより)
仁徳天皇(にんとくてんのう)とは
さてここから仁徳天皇とは何者なのか色々調べていきたいと思います。
(Wikipedia「仁徳天皇」より)
公式プロフィール
第16代天皇。(在位:仁徳天皇元年1月3日 – 同87年1月16日)
父は第15代天皇の応神(おうじん)天皇で母は仲姫命(なかつひめのみこと)。
応神天皇にとっては第四皇子。
まぁパッと調べるとこういう情報が出てきますが、はたしてどういった人物なのでしょうか?
実在するか自体が少し怪しい
現在の宮内庁などの公式記録では令和天皇(浩宮様)まで124人126代(重祚している天皇が二人存在※)が天皇として定められています。
ただ日本の歴史の公式ガイドブックと言われている「古事記」と「日本書紀」を鵜呑みにすればという話であり、天皇の実在性については昔から様々な議論がなされています。
第10代の崇神(すじん)天皇から実在する説や、第15代応神天皇から実在するという説、第26代の継体天皇から実在する説など、大きく分けると四つに分かれていると言われています。
これは歴史について少し学ぶと分かりますが、こういった「古事記」や「日本書紀」などの書物や記録は、帝位や君主としての地位を得た権力者が自分の地位の正統性や人物としての高貴さを残すために自ら指示して作成するのが一般的です。
例えば戦国時代の有名な武将について残っている記録などには、○○天皇の子孫だとか先祖は○○であるという記述がされている武将がたくさんいますが、ライバルを打ち破ったり生き残った人間は歴史を捏造することが可能なので、その信憑性が疑われている人はたくさんいます。
こういった記録は混乱の時代を生き抜いた”勝者の歴史”なので、内容をそのまま信用はしにくいというのが歴史学になります。
つまり様々な資料で同じ記述があればその信憑性も確実視されるのですが、25代までの天皇までは参考になるような資料が極めて少ないので議論が今でも続いているわけです。
今のところ確実に実在した一番古い天皇と言われているのは、21代の雄略(ゆうりゃく)天皇からだと言われています。出土品の中からその名が確認できたということらしいのですが、資料が増えてきて確実視されるのは、一般的に26代の継体天皇からと言われています。
また特に謎だと言われているのが、初代神武(じんむ)天皇から9代の開化天皇までなのですが、このあたりは神話ともされており、10代雄略天皇と神武天皇に共通点があることから同一人物とする説もあるようです。
つまりは16代の仁徳天皇などは年号は分かっているものの、生年月日や死亡年などが西暦換算でいつぐらいなのかさえ分かっていないので、”よく分からん”天皇というわけです。
※重祚(ちょうそ)とは一度退位した天皇が再度即位することをいいます。日本の歴史上、第35代の皇極天皇が第37斉明天皇として、第46代孝謙天皇が第48称徳天皇として、それぞれ重祚しています。いずれも女性の天皇です。
享年143歳?長寿の天皇
これは古事記と日本書紀で記述が分かれるのですが、日本書紀によると仁徳天皇は元号から逆算すると143年生きたことになっており、古事記では御年83歳という記述があります。
これだけ見ると日本書紀がとんでもないことが分かりますが、実は日本書紀に記述されている天皇のうち12人が100年生きたことになっているので特別仁徳天皇だけ以上に長寿だったわけではありません。
また日本書紀がおかしいという見方もできますが、古事記のほうでも100歳越えの天皇が8人いるとされており、いかにこのあたりの天皇が怪しいかということが分かるでしょう。
たまに聞く”皇紀2600年”という言葉があると思いますが、この2600年というのは日本書紀の天皇の年齢から逆算された数字となります。
日本書紀によるると一番長生きしたとされる天皇は第12代景行天皇の147歳(古事記では137歳)、古事記では第10代の崇神天皇の168歳(日本書紀では119歳)になっています。
この異常な長寿の理由として半年を一年と換算する”倍歴”の説が一般的なようですが、暦(こよみ)の上で矛盾が色々生じているようなので、本当にこのあたりの人たちは少し怪しいということがよく分かります。
存在そのものが疑われている二十代あたりまでの天皇で一番短命でも五十歳が最低ラインとなっていますが、こういった長生きをしている一族なので秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて蓬莱に徐福を送り出したという見方もあるようです。
仁徳天皇崩御後の即位する順番が少し変
一般的に昔の天皇の名前を憶えている人は歴史学者がクイズマニアぐらいだと思いますが、仁徳天皇崩御後は十七代が履中(りちゅう)天皇、十八代が反正(はんぜい)天皇、十九代が允恭(いんぎょう)天皇が即位しています。
仁徳天皇の崩御後の即位順の何が変かと言うと、この三人が兄弟という点です。
この三人の天皇は母親も同じ全兄弟だったので、パッと見、兄弟間で即位していくのはそれほどおかしいことではない感じますが、不思議なのは履中天皇にはちゃんと市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)という第一皇子がいたのになぜかこの人が天皇になっていません。
また、それまでの天皇の即位順を見ていくとほぼ直系で天皇の皇子(子供)が即位していった流れがここで変わっています。
もうちょっと時代が後になってくると、兄弟間で代替わりしているという例はあるのですが、あくまで後継ぎがいない、もしくは皇太子が幼少なので成人するまでの時間稼ぎというケースのはずです。
ただ、履中天皇は日本書紀でも70歳、古事記でも64歳まで生きた記録があるので、崩御した時に皇太子の市辺押磐皇子は間違いなく成人していたはずなので、なぜ弟の反正天皇が天皇になったのか少し怪しい感じがします。
息子、孫の代で激しい跡目争い?
仁徳天皇の後をついだ息子の履中天皇は六年しか在位期間がないのですが、仁徳天皇が長生きしたので短いのは当然という感じもしますが、それまでの天皇の在位期間の歴史から考えると極端に短い天皇になります。
十四代の仲哀天皇こそ十年しか在位期間がないのですが、それまでの天皇は最低三十年、場合によっては七十年~百年(笑)という天皇もいたので、このあたりから天皇についての描かれ方が少しリアルになっていると言えますね。
十五代の応神天皇から実在するという説はもしかしたらこのあたりから来ているのかもしれませんね。(あくまでここまで調べた上での個人的な感想です)
履中天皇のあとを継いだ弟の反正天皇も五年で亡くなっていますが、その弟である允恭天皇は四十年近く在位したようです。
そして肝心の市辺押磐皇子(履中天皇の息子)ですが、どうやらこの人はのちに暗殺されています。
暗殺されたのは允恭天皇の息子であり市辺押磐皇子から見て従兄弟にあたる二十代安康(あんこう)天皇の頃だったようですが、安康天皇は後継ぎがいなかったので次期天皇に市辺押磐皇子を推そうとしていたようです。
実はこの安康天皇も即位して三年で暗殺されるのですが、二か月後に次期天皇として有力だった市辺押磐皇子はこのことを恨んでいた後の二十一代雄略天皇に殺されてしまったようです。
ただこの雄略天皇は安康天皇と母親も同じ全兄弟だったようで、なんらかの事情で天皇になれなかった市辺押磐皇子のことを思って正統な流れに戻そうとしたら、天皇が実の弟に殺されるというのはかなり血なまぐさい話と言えますね。
まとめると仁徳天皇の息子の代でどうもおかしな跡目争いがあり、孫の代になると武力行使に出るような人間まで出てくる状況になっており、激しい権力闘争があったことが想像できます。
ただ市辺押磐皇子ですが、雄略天皇の息子である二十二代清寧天皇のあとに後継ぎがいなかったようなので、子供たちが天皇になっており無事天皇家に血は残ったことになります。
歴史的に見るとこういった跡目争いが激化するケースとしては、先代の影響力が強すぎて、同時にそれらに直接仕えた家臣の力が強くなり、後を継いだ当代に対しても物を言う人間が出てきたり、主君より力をもち発言力や影響力を持ちだすということが原因だったりします。
そういう風に考えるとおそらく仁徳天皇の時代はしっかりとした統治体制だったのではないかということが考えられますね。
倭の五王の一人?
日本の歴史を読み解く場合、飛鳥時代以前はほとんど日本に資料が残っていないので、「魏志倭人伝」など中国の資料が参考にされることがありますが、この時代に関しても少しだけ記録が残っています。
それが中国の南朝時代の宋(420-479)滅亡直後に編纂された「宋書」です。
この中の「蛮夷伝」によると倭の五王から朝貢(ちょうこう)されたとの記録があります。
倭の五王とは名を「讃・珍・済・興・武」と言ったそうですが、このうち「讃」もしくは「珍」が仁徳天皇ではないかと言われているそうです。
ただ、この五王が日本にあった別王朝の王という説もあるようですし、「武」は雄略天皇の可能性は高そうではあるものの他の四人ついては矛盾点が多く存在し、特定は難しくなっています。
まとめ
以上、資料も少なくあまり大した情報はないので、インターネットで色々と情報を引き出しつつ、僕があらかじめ知っていた情報と合わせて抜き出してみました。
僕が改めて知った情報としては子供や孫の代になって結構血なまぐさい争いがあったことぐらいだったのですが、おかしな順番で天皇の位が繋がっていることが分かったことからも、このあたりでもしかしたら王朝の断絶があったということを知れたのは面白かったです。
ただ、肝心の仁徳天皇が具体的に何をやったか?ということについては大規模な土木事業をやったぐらいのことしか分からないんですが、こういうのはネタとしてあまり面白くないのでスルーしておきました。(笑)
最後に仁徳天皇直後の子供たちの在位記録や生年などは今回詳しく触れませんでしたが、実はここも常識的に考えておかしな部分がたくさんありました。
このあたりはまた機会があれば詳しく触れてみたいと思います。