「渋沢栄一」とは?新一万円札に描かれた彼は何をした人物なのか調べてみた

2024年度から二十年ぶりに紙幣のデザインが変更

約三十年続いた現在の元号「平成」も残り半月となり、いよいよ新元号「令和(れいわ)」のスタートまで残り僅かになりましたね。

平成生まれの若い人達にとっては当然初めての体験でしょうから、元号が変わることによってまわりでどんな変化が起きるのか、ワクワクしている人や少し不安な方もいるでしょう。(昭和生まれのおっさんおばさんは一回体験しているのであまり意識はしていないでしょうが・・・)

さて、世間やマスコミは4月1日の新元号の発表の時には、さながらお祭りのような雰囲気を見せていましたが、新元号発表から約一週間後の4月9日には紙幣のデザインが変更されるということが財務省から発表されました。

今回、新元号への変更と紙幣のデザイン変更に関して因果関係はないようですが、最近はほとんどテレビを見ない人も多くなってきたので、このニュースに関しては新元号ほど認知されていないような気がしますし、認知していたとしても誰に変わるかまで把握している人はそれほど多くはないでしょう。

かくいう僕も最近はテレビよりもっぱらネット派なので、なんとなく”お札のデザインが変わるらしい”というのをどこかで見たような気がする程度の認識でした。「福沢諭吉」から「渋沢栄一」に変わるというのも意識しないうちにどこかで認識していた程度で、もちろんそれが2024年からというのは知りませんでした。

ワイドショーをかじり付いて見ている人以外は同じような人も多いでしょう。

ちなみに五千円札は「津田梅子」、千円札は「北里柴三郎」に変わるそうですが、僕はこの記事を書くために確認用に改めて調べてみて初めて知りました(笑)。

そしてお札に描かれる人が変わることにより、みなさん同じことを思ったと思いますが、「北里柴三郎」は何となく耳にしたことがあり分かるとしても、「渋沢栄一」になると、クイズ番組をたくさんやっているので名前は聞いたことがある方もいるとは思いますが、正直なところ

渋沢栄一って何した人やねん?

こう思った人も多いのではないのでしょうか。

そこで今回は個人的な興味もあり「渋沢栄一」とは何をした人なのか調べてみることにしました。

(「津田梅子」に関しては何となく名前で何した人か想像はつくんですが、機会があれば別の記事で取り上げてみたいと思います)

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「渋沢栄一」の経歴

公式サイトやWikipedia、その他の彼を取り扱ったサイトなどで情報を集めながらまとめてみました。

誕生・少年期

1840年(天保11年)武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市血洗島)にて農家の長男として生まれれる。

実家は農業の他に藍玉の製造・販売、養蚕を営む豪農だったようで、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、7歳の頃には従兄弟の尾高惇忠(おだかあつただ)などから「論語」をはじめとする四書五経など専門的な知識を学び、剣術は大川平兵衛から神道無念流(しんどうむねんりゅう)を学んでいます。

尾高惇忠・・・1830年生まれで渋沢栄一の父渋沢元助の姉の子。富岡製糸場初代場長などをつとめた実業家。

青年期

1858年(18歳)の時に惇忠の妹であり従姉妹にあたる尾高千代(1841年-1882年)と結婚

最初の妻千代との24年間の結婚生活(1882年にコレラにより死去)で二男三女をもうけたようですが長男と三女は早世しています。

千代の死後栄一は再婚していますが、彼女たちの他にも庶子がおり、その中の昭子は栄一が面倒を見ていたのちに”日本の製紙王”と呼ばれる大川平三郎(千代の姉の子)の妻となり、その孫にはかつて”競馬の神様”として競馬ファンに親しまれた競馬評論家の大川慶次郎さんがいるようです。

1961年(21歳)の時に江戸に出て、儒学者である海保漁村(かいほぎょそん)の門下生となる。またこの時期に北辰一刀流の千葉道場に入門した影響もあり、尊王攘夷派の志士となる。

のちに実業家として名を成す渋沢栄一ですが、他の幕末の志士達と同様様々なイデオロギーがぶつかる激動の中にいたようです。

1863年(24歳)頃には武力で幕府を倒す計画にも参加する予定だったようで、若い時は血気盛んだったことが分かります。

そのような活動をしていたため身を隠す狙いもあってか京都にも行っているのですが、文久の政変直後だったようで、尊王派の活動はしにくい状態だったようです。

タイミングが良かったというか、ちょっと行動するのが早ければ時代の中に消えた可能性もありますね。

1866年(26歳)の時に江戸遊学中に交流のあった一橋家から将軍(徳川慶喜)が出たことで、同家の家臣に推挙されて幕臣となる

1964年頃には一橋家に取り立てられれて領内の見廻りや農兵の募集などの活動をしていたようです。

慶喜の将軍就任にともない晴れて幕臣となりますが、翌1867年にはパリ万国博覧会の出席する将軍名代である徳川昭武(とくがわあきたけ:慶喜の異母弟)の随行員としてフランスに渡っています。

そこで最先端の産業や軍備、街づくりなどにふれ大きな影響を受けたようです。

パリ万博出席ならびにヨーロッパ各国の外遊後、昭武一行はヨーロッパに留まり留学する形になっていたようですが、翌1868年大政奉還により帰国が命じられ、一年ぶりに日本に帰国しています。

このヨーロッパ滞在時には通訳として同行していたアレクサンダー(ドイツ人医師として有名なシーボルトの長男)から語学を学ぶなどし、交流を結んでいます。

1869年(29歳)明治政府成立後は大蔵省に入庁

江戸幕府が滅亡し、明治政府が誕生したため栄一も当然一橋家では雇いきれなくなり出仕します。

当初、商才を活かして静岡藩内で”商法会所”を設立しますが、これはフランスで学んだ株式会社の仕組みをまねたものだと言われています。

しかしながら大隈重信の説得もあり大蔵省(民部省)に入庁しますが、そこではヨーロッパで学んだ最先端の知識を活かして活躍したようです。

四年後の1873年には予算編成などをめぐり大久保利通や大隈重信と対立し退官しています。

実業家時代・晩年

1873年(33歳)、大蔵省を退官したあとは様々な銀行や会社の設立に関わる

官僚でなくなったあとの渋沢栄一は一気に実業家しての才能を開花させます。

同年に官僚時代にその設立を指導していた第一国立銀行(現みずほ銀行)の設立に関与したほか、多種多様な会社や銀行の設立に関わりその数は500を超えると言われているそうです。

現存する有名な会社・組織ではみずほ銀行の他、王子製紙、東急、帝国ホテル、東京証券取引所やキリンビール、東洋紡、一橋大学など様々なジャンルの組織の設立や経営に関わっており、その影響力や手腕がいかに凄かったかが分かります。

このあたりの才能は少年期にまなんだ基礎学問とともに、ヨーロッパ滞在中に最先端の産業や商業に触れられたこと、官僚になったことにより政府と強いパイプを持てたことなどがうまく絡み合った結果でしょう。

こうして彼の足跡をたどってみると実業家というよりも企業コンサルティングの先駆けのような印象を受けますね。

1887年(47歳)頃には彼を慕う経営者などにより龍門社という勉強会のようなものが組織され、その会員数は数千人を数えたそうです。現在で言うと松下政経塾みたいなもんなのでしょうか。

1931年(91歳)11月11日 死去

実業家に転身後は約60年間にわたり企業経営や設立に関わった他、教育者、政治家としても様々な活動を行いその生涯を終えています。

彼の功績に対して正二位の階位や子爵としての位、紺綬褒章など送られており様々な分野で活躍し、その功績が認められたことが分かります。

※以上敬称略。彼についてはまだまだ知らないことも多いので、僕も勉強しながらこのページをより正しいものに修正していきたいと思います。間違い等ありましたらご指摘ご指導よろしくお願いします。

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功績 日本の金融・商業(資本主義)の発展に寄与

上記では渋沢栄一の経歴をまとめてみましたが、正直なところこれだけでは様々な企業や団体の設立に関わったというだけで、一万円札の顔として採用されるほどの人物にはまだ思えません。

そこでもう少し掘り下げて調べていきたいと思うのですが、まず個人的に色々なところで調べていて一番気になったのは、たくさんの企業の設立に関わったという部分です。

この”設立かかわる”という言葉、かなり微妙な表現だとは思いませんか?

会社を起業したり起こすという表現ではなく”設立にかかわる”という表現なんですよね。これだと会社の設立を思いついたフィクサー、コンサルティング的な人なのか、お金を生み出すアイデアを思い付いた人なのか、お金を出して援助した人なのか分かりにくいんですよね。

王子製紙の設立の場合

そこで、渋沢栄一と言えばまずよく名前の出てくる王子製紙(王子ホールディングス)から見ていったんですが、彼は1873年に王子製紙の前身となる抄紙会社という製紙会社を日本で三番目に設立しています。

まだ時代が明治に変わり数年という時代ですから、会社という概念すらもあまり浸透していない時代ですよね。

そんな時代に両替商などの力を借りながら渋沢自身も10%出資して会社の設立を行ったようです。

実際のところこの前身の会社の設立から約二十年近く代表者の座(代表取締:当時の肩書)にいたので彼自身が作り出し、運営していた会社のようです。

東京ガスの設立の場合

次に名前がよく出てくるのが東京ガスですがインフラ系です。実際に東京ガスのホームページに行ってみると渋沢栄一が創業者として紹介されていますね。

東京ガスの沿革を調べてみると、前身の東京瓦斯局が1876年に創設されていますが、どうやら管轄は東京府となっています。ま、当然最初は官ですよね。

これが1885年に民間に払い下げられ、渋沢財閥の渋沢栄一と浅野財閥の浅野総一郎によって民間の東京瓦斯会社が設立されたようです。

歴代社長を調べてみると最初に渋沢栄一の名前が見られるので、すでに製紙業などで財を成していたのでしょうか、また元々官僚上りで政府や役所とのパイプがあったということも十分考えられます。

なるほどというパターンですが、この時東京瓦斯会社を一緒に設立した浅野総一郎ついて調べてみると、渋沢栄一が取引で縁のあった年下の浅野を気に入り、水力発電や鉄道の建設の増加にともない経営を指南する代理人を送り込んでいます。

おそらくヨーロッパで最先端の産業や文化を学んでいた渋沢栄一はこの段階ですでに日本近代化・資本主義化の指南役の立場にあったことが分かりますし、日本の早急な近代化を目指してていたことでしょう。

恐らく日本と欧米諸国の徹底的な差を感じていた数少ない一人だったのでしょう。

東京海上火災保険の設立の場合

東京瓦斯会社設立からさかのぼること六年前、1879年に日本初の保険会社である東京海上火災保険(現:東京海上日動火災保険)が設立されています。

東京海上グループのホームページにも渋沢栄一が設立者のひとりとして肖像画とともに紹介されていますが、この会社については王子製紙や東京ガスとは関わり方が少し違うようです。

同ホームページによると1879年8月1日に東京海上保険が設立されたようですが、この会社は元徳島藩主である蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)を中心とした約200人の出資者による株式会社のようで、渋沢自身は三菱の岩崎弥太郎とともに紹介されています。

当初は社員10人程度の小さな会社だったようですが、渋沢と岩崎などは相談役という立場(頭取は蜂須賀茂韶)であったそうなのでお金やアイデアなどを出した立場だったのではないのでしょうか。

おそらく、一人の人間がたくさんの会社の経営をしていくことは不可能なので、渋沢栄一が設立に関わったと言われる500の企業の大半はこの東京海上火災保険のパターンだと考えられます。

明治政府樹立後、民間で事業をやろうにも右か左も分からない、経営や経理の概念すらも怪しい中でヨーロッパ基準の考え方を理解し実践できていた渋沢が様々な人から頼りにされるのは当然の流れであり、カリスマ的な地位を得ていったのは当然の流れなのかもしれません。

まとめ

渋沢栄一は他にも日本赤十字の設立や学校などの設立にも関わっており、社会貢献活動や慈善活動も積極的だったようですが、それも日本近代化の黎明期に、最先端の見識と理解があったからこそでしょう。

ヨーロッパでの長期滞在は尊王の志士して活動していたという幸運があったにしても、その後、経済や産業の発展の面で多方面の会社や人物に影響を与えたことは間違いなく、日本の資本主義の父として一万円札の顔に選ばれたのは納得の人物ということが分かりました。

産業におけるたくさんの初めてを具現化してきたり、その手助けをしてきた人物としておそらく今後さらに名前や功績が知られることになるのでしょうね。

YouTube界でいうとHIKAKIN(ヒカキン)のような人物だったんでしょう!(このオチに持っていきたかったw)

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新しい一万円札

財務省のホームページですでに秦一万円札のデザインが発表されているので載せておきます。

人物の変更意外に目立った特徴としては、これまで大きく表示されていた壱万円の表記が小さいくなりアラビア数字での表記”10000”がかなり大きく表示されている点ですね。

左側には偽造防止用のホログラムもどうやら搭載しているようでかなり現行の一万円札から変わるという感じがします。

個人的な第一印象としては何だか外国の紙幣ぽい(中国ぽい?)感じがしましたね。

「渋沢栄一」が描かれた新一万円札

新一万円札裏面

(画像引用:財務省「新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します」より)

参考リンク


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