その後の「賤ヶ岳の七本槍」

賤ケ岳の戦い

「賤ケ岳の七本槍」とは

農民の出自でありながら天下人まで上り詰めた豊臣秀吉(羽柴秀吉)ですが、当然武家の出ではないため他の武将のように自分の家に代々使える家臣団や下僕などは当然最初はいません。その後信長に取り立てながら土地持ちの大名となり最後は太閤となり天下をその手にいれたわけですが、その成功の陰には竹中半兵衛黒田官兵衛蜂須賀小六、統一してからは石田三成大谷吉継といった部下に支えられていきます。

秀吉麾下の武将としては上記のような参謀や官僚タイプが比較的よく知られていますが、秀吉も激動の戦国時代を戦功を挙げることによって成り上がってきた武将なので、そこには最前面で戦った部下たちがいます。

秀吉が行った戦いの中でも特に有名で、天下人としての自分の運命を決定づけたのが、信長亡き後の跡目争い最大の戦い、ライバル柴田勝家との「賤ケ岳の戦い」なのですが、そこで活躍したのが「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれる七人の武将たちです。

今回は個人的な興味もあって秀吉が亡くなったあと、彼らがどういった結末を辿ったか調べてみました。

(画像はWikipedia「賤ケ岳の戦い」より引用)



福島正則(ふくしま まさのり)

「賤ヶ岳七本槍」筆頭。さすがにこの人はよく知られていると思いますね。秀吉の母方(大政所)のいとこであり、幼少期から秀吉に仕えていたこともあり農民出の秀吉にとっては加藤清正とともに数少ない信頼できる一族衆の一人と言えます。

賤ケ岳の戦いだけでなく、山崎の戦いや朝鮮出兵でも重要な役割を担っており秀吉家臣団の中でも武断派の筆頭格であり、かなりやんちゃなエピソードもあって完全な武闘派の猪武者だったようで最前線での戦いが得意だったようです。

秀吉死後は朝鮮出兵時での国内残留派との確執からか、徳川家康からの調略もあって家康にかなり接近しており関ヶ原の戦いでも東軍として参戦しています(正則の東軍への参加により形勢が一気に東軍に傾いたとも言われています)が、これは石田三成など国内派への恨みが強く残っていたのが原因のようで、戦後も豊臣秀頼などの忠誠は忘れていなかったでしょう。ちなみに大阪冬の陣に本人は出陣していません。

豊臣家滅亡後の江戸幕府下では、難癖をつけて改易させられたあと最後は信濃に転封後1624年(1561年生まれなので63歳で)病死していますが、少し不遇の晩年だったと言えるでしょう。豊臣家とかなり近い関係だったことや戦上手だったことを考えても、幕府が早く安定した世の中に持っていくために側近たち中枢部などが仕組んだ陰謀だったとも考えられますね。

その後福島家は直系に嗣子がいなかったため断絶したようですが、下の子供の孫によりお家は復活したようです

加藤清正(かとう きよまさ)

福島正則とともに秀吉の一族衆(正則に比べて若干血は遠い)ツートップの一角ですね。そう歴史ドラマなんかでもたまに出てきますが虎之助。正則とも当然仲がよかったようです。

正則が完全な武闘派とすると、加藤清正のほうはいくつかの戦で活躍はしているものの、正則ほど最前線で戦ったわけではないようで、秀吉の警護や後方支援なども行っていますね。裏を返せば腕っぷしが強く信頼できる、裏方の仕事もできるということで、個人的には正則と同じように脳筋キャラのイメージだったのですが意外と器用な武将だったのかもしれません。現在の熊本での人気を考えると内政力も高かったのでしょう。

秀吉死後は熊本に土地を与えられ内政につとめて善政を行ったようですが、関ヶ原の戦い前に反乱を裏で糸を引いてたのが家康にばれてしまい、九州に謹慎させられてますね(ただ、処分が軽いのは何でかなという感じはします)。それもあってか関ヶ原の戦いには直接参加せず、黒田官兵衛のように九州の地で西軍に所属した大名を撃破して間接的にではありますが手柄をあげていますね。

その後徳川家との関係も改善したようですが1611年49歳(1562年生まれ)で亡くなっています。家康達と会談直後に発症した梅毒で亡くなっているということや、同じように形で同時期に浅野幸長が亡くなっているので暗殺説がまことしやかに囁かれていますね(マンガ「あずみ」でも確かこういうシーンありましたよね)。個人的にもこれは間違いなくハニートラップによる時限爆弾的暗殺だと思います。

熊本で行った良政など内政での経営手腕や戦ももちろん得意、豊臣家とはかなり深い関係のある武将なので、本人にその気がなくても神輿に担ぎ上げられる可能性もあるので、幕府としては当然かなりの不安要素で警戒されてのことだったのでしょう。歴史は繰り返すと言いますが、世界的に見ても乱世の平定後に有能な武将が粛清されるのはよくあるケースですね。

清正亡き後は20年後加藤家は東北へ改易されたようですが、色々あって直系は断絶したようです。清正あっての加藤家だったのかもしれませんね。

脇坂安治(わきさか やすはる)

1554年生まれなので「賤ケ岳の七本槍」では年長者になりますね。ただ正則にあんなのと一緒にするなと言われている(なんか三国志の関羽や張飛の話みたいですね)ので、格としては上の二人から少し落ちるかもしれません。

正則や清正、片桐且元以外は僕もわりと名前ぐらいしか知りませんが、この脇坂安治という人は調べてみると近江の生まれで、秀吉が長浜に領地を与えらた時代に家臣になったようです。しかしながら目立った活躍はほぼ「賤ケ岳の戦い」で加藤清正と同じように三千石を与えられたことからもここがピークで唯一の見せ場だったようですね。

朝鮮出兵では水軍を担当していますが、あの李舜臣に撃退されたのがこの人のようですね。(その後はソコソコ活躍はしたみたいです)

秀吉死後の関ヶ原の戦いでは一旦西軍に属したようですが、戦後お咎めもなったことからもあらかじめ埋伏の毒的な役目だったみたいです。(三成が挙兵した時大坂に滞在していたので東軍につくことができなかったようです)

江戸幕府下では伊予大洲藩から始まり、何度か転封を重ねたあと明治に子孫は子爵になっているようですが、地味ながらなかなかやりましたなという感じですね。

片桐且元(かたぎり かつもと)

且元はこの前まで大河ドラマ「真田丸」で結構重要?な役だったのでご存知の方も多いでしょう。あれのせいか振り回されまくってた冴えないおっさんのイメージですね(笑)。

ドラマでも描かれていましたがかなり淀君や秀頼に近いポジションでしたが、この人の出自を辿ってみると納得です。元々この人も近江の出身で淀君の生家である浅井家に仕えていたようで、浅井家の小谷城落城とともに淀君の母である市(ご存知織田信長の妹)とともに下ったので、淀君などからすれば昔からの世話係みたいなものだったのでしょう。

この人の経歴を見ると脇坂などと同じように目立つのは「賤ケ岳の戦い」ぐらいなのですが、「関ケ原の戦い」で西軍につきながら、目立った粛清などがないことなどを考えると思っている以上に「豊臣宗家」の窓口としての役割が大きかったのかもしれません。もしかしたら秀吉亡くなった後は、大名というよりも豊臣家の護衛役的ポジションだったのかもしれませんね。徳川家としてはそれほど気にするほどの人物ではなかったのでしょう。

これを表すように大坂冬の陣前には徳川側に難癖をつけれられる原因を作ったり、挙句の果てには大坂城を追い出されて、その後豊臣家と徳川家の間で行ったり来たりさせられ、ドラマにあったように翻弄されていますが、この人の場合最後まで淀君に振り回された人生だったのでしょう。

豊臣家の最後の時は徳川側にいて助命嘆願の窓口だったようですが、彼は「大坂夏の陣」後の20日後に病死してます(もともと肺病を患っていたらしい)が用済みと考えられてもおかしくなく怪しいもんですね。

片桐家は直系はすぐ断絶したものの弟の家系が明治まで続いて無事子爵となったようです。



加藤嘉明(かとう よしあき)

1563年生まれで 1631年没。はっきり言ってしまうと、「賤ケ岳の七本槍」でパッと浮かぶのはこの五人までですね。加藤嘉明に関して知っているのは、まぁお住まいの事情もありますけど(笑)、かとうよしあきらという説もありますね。

しかしながら、調べてみると七本槍の中では正則や清正に次ぐエピソードの多さですね。少しびっくりしました。あと出自も三河出身ということで他の六人が秀吉の親戚や治めていた近江出身(ただ糟谷は播磨出身)ということを考えると、七人の中では異彩を放っています。

この人も水軍を率いたようですが、脇坂の敗退なんかに比べると特に失敗が見られないし、あの藤堂高虎なんかが仲が悪かったのに自分の代わりに推挙しているところを見ると、相当有能だったのかもしれません。

秀吉死後の活動に関しては三成暗殺計画の一角だったということからも完全に武断派の人間ですね。関ヶ原の戦いでも東軍で三成本隊と戦っていたり、大阪冬の陣は留守役立ったものの夏の陣では本人が出陣しており完全に徳川側の人間として滅亡を見届けていることを考えると前述の四人に比べてすこし秀吉恩顧の武将とは違う対応をしているような気がします。

この人は経歴だけ見るとソコソコの活躍はしているようですが、あまりメジャーでないのは活躍の場がローカル過ぎたのが原因なのかもしれませんね。

平野長泰(ひらの ながやす)

残りの二人は地味ですね(笑)。この人に関しては七人の中で唯一大名になっていないというのが特徴でしょうか。子孫は存続したようですが旗本どまり(一万石以下)のためおそらく資料もあまり残っていないのでしょう。

賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦いで活躍はあったようですが、エピソードとしては関ヶ原の戦いでの徳川秀忠の遅参、この軍の中にいた(完全に東軍ですね)というのが知られているようですが、そこまで派手な活躍を挙げられなかったということでしょうか。

糟屋武則(かすや たけのり)

この人は七人の中では唯一の西方(京都を中心とすると)の人間ですね。播磨出身であり秀吉が中国地方の攻略の時に配下になったようなのですが、小姓として召し抱えられていることや後方支援や警護の役目をよく担ったことからも秀吉に可愛がられていた武将なのでしょう。ただ武に関するエピソードも多少あるので腕はある程度立ったとのでしょう。

ただ他の六人の中とは違い糟谷だけはその最後がよく分かっていないようです。

関ヶ原の戦いでは後方支援や目付の役目が多かったせいか石田三成や片桐且元に立場が近く西軍についたのでしょう。戦死したわけではないようですが、西軍についたということで改易させられ歴史の表舞台から消えています。処刑や配流されていないことなどからもそこまで力があった武将ではなく文官としての色合いが強かったのかもしれませんね。

まとめ

以上「賤ケ岳の七本槍」を調べてみると色々見えてきて面白いですね。この七本槍は豊臣家のプロパガンダのようなものと言われているようですが、確かにエピソードなどを見ると納得できます。

高校生や歴史に最近興味を持ったという方のためにまとめると

  • 秀吉の元々の親戚で子供の頃からの知り合い:福島正則、加藤清正
  • 元浅井家、滅亡にともない傘下に加わる:脇坂安治
  • 元浅井家、浅井三姉妹のおまけでついてくる?:片桐且元
  • 近江時代に苦労の末に仕官成功:加藤嘉明
  • 尾張出身でいつの間にか秀吉の部下:平野長泰
  • 中国時代に秀吉のお気に入りになって三成と仕事:糟谷武則

こんな感じでしょうか。実際は二人足して九人だとか豊臣十四将というのがあるみたいなのですが、いずれ機会を見て記事にしたいと思います。

完全に個人的な知的好奇心で調べてみました。