改めて江戸幕府の徳川将軍十五人調べてみた(後編)

改めて江戸幕府の徳川将軍十五人調べてみた(前編)
江戸幕府の将軍と言えば十五人いることは、まともに生活していれば中学生でも答えられることだと思いますが、果たして皆さん全員の名前は言えますか?そしてどんな将軍だったか知ってい...

前回の記事では初代家康から七代家継まで振り返ってみましたが、ちょうど家継のところで一旦男系の血筋が途切れるのでタイミングとしてはベストだったと思います。(実は1ページでこのネタをやろうとしたら思った以上に長くなっただけなんですが)

で、いよいよ”暴れん坊将軍”としてお茶の間でも有名な徳川吉宗から再開するわけですが、この吉宗から最後の将軍慶喜までどのような将軍だったのでしょうか。後半の将軍たちについては泰平の世ということで、僕も含めてあまりその素性を知らないという人も多いことでしょう。

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八代 徳川吉宗(とくがわ よしむね)

在位:1716年~1745年(29年1か月) 享年:68歳(1684年-1751年)
父:徳川光貞(徳川家康の十男頼宜の長男、紀州藩藩主)

上述したようにテレビドラマのおかげで将軍としては初代の家康とならび有名な感のある徳川吉宗です。歴代将軍の中でも中興の祖と呼ばれているぐらい、その政治手腕を発揮した吉宗ですが、教科書でも享保の改革などと合せて登場していたり、ドラマなどでその活躍が描かれているのでその名君ぶりは世間に知られていると思います。

ですので、今回は先代の家継で家光の男系男子が断絶していますし、吉宗はどういった血筋なのかを振り返ってみたいと思います。

ここも有名な話ですが、吉宗は徳川御三家(紀州藩、尾張藩、水戸藩)のうち、紀州藩二代目藩主光貞の四男坊として生まれています。更にさかのぼるとこの光貞は徳川家康の十男頼宜の長男ということで、母はあの加藤清正の娘なようで吉宗は加藤清正のひ孫ということになります。ちなみに吉宗の祖父にあたる頼宜というのは家康晩年の子ということで、かなり可愛がられていたようです。

話は戻りますが、吉宗は四男ということで紀州徳川家の藩主につくことさえ怪しかったわけですが、1705年に父の光貞隠居により跡を継いだ長兄の紀州藩三代目綱教、三男頼織が立て続けに亡くなり、隠居した父の光貞まで片っ端から亡くなっています。よく言われる吉宗の黒い噂もこのあたりに起因するのでしょう。長兄の綱教に関しては五代将軍綱吉の娘婿(はとこ同士の結婚ですね)であり、一時期将軍候補として名前が挙がっていたそうなので、利発な男だったのでしょう。

このような紆余曲折があって吉宗は22歳で五代目の紀州藩藩主となっていますが、就任から約十年後に家継の死去にともない傍系である吉宗にお鉢が回ってくることになります。実際格で言えば水戸藩から将軍を迎えるほうが自然であったようですが、この辺りは現在の政治と同じようにロビー活動や根回しの結果でしょう。

こういったように吉宗は出生を考えるとかなりミラクルな内容で将軍となっています。まぁもちろん紀州藩における政治手腕や人柄も考慮に入れられてのことでしょうね。

家光以降の将軍は亡くなるまで将軍の位についていましたが、歴代将軍の中では吉宗が久しぶりに生きているうちに将軍位を譲っています。ただ理由は、脳梗塞など体調不良が原因のようで、他の将軍比べて極めて健康的だった吉宗も年齢には勝てませんね。

特徴

  • 徳川家光の血を引かない初めての将軍
  • 享保の改革を行う
  • 歴代の将軍の中では健康
  • 存命中に将軍位を譲る
  • 加藤清正のひ孫

九代 徳川家重(とくがわ いえしげ)

在位:1745年~1760年(14年6か月) 享年:51歳(1712年-1761年)
父:徳川吉宗(八代将軍)

吉宗の生存中に長男ということで将軍位を譲り受けていますが、吉宗以外の歴代の将軍たち同様病弱であったようです。しかも脳性麻痺の影響により言語の不明瞭さや顔面麻痺があったのではないかと言われており、その功績よりも身体的虚弱さなどのほうが強調されていますね。(ただ色々な行事には出席・参加していたようなので判断能力などには問題はなかったようです)

吉宗が存命であったり亡きあともいわばその貯金もあったでしょう、この人の時代に大岡忠光(大岡越前こと大岡忠助とは親戚ですが別人です)や田沼意次が登用されており、人材登用に関しては一定の評価を得ているせいもあってか、政治的混乱はあまり見えません。

ただ大奥にこもりがちであったことや酒色にふけることが多かったことを考慮すると、人物的には典型的なダメ息子だったような印象を受けます。

特徴やエピソード

  • 若干発話などに身体に軽度の障害があった
  • 頻尿であり小便公方と揶揄されていた
  • 長男家治を生んだ側室に他の側室とのイチャイチャ場面に踏み込まれてしまい、怒って牢に入れたところ、存命であった大御所の父吉宗に怒られ、結局出すことになる
  • 在位中に隠居し大御所となる

十代 徳川家治(とくがわ いえはる)

在位:1760年~1786年(26年4か月) 享年:50歳(1537年-1786年)
父:徳川家重(九代将軍)

祖父の吉宗の存命中に生まれており、その聡明さや父家重への失望感からか吉宗が生きているうちは直接英才教育を受けていたようです。しかしながら、即位後は政治を側近の田沼意次にまかせ趣味の将棋に耽っていたということで暗君としての評価が高いようです。

エピソードをひも解いてみると愛妻家で中々側室を取らなかったり、吉宗時代以上の質素倹約ぶりや配下への配慮などから、かなり人間臭い人物だったことが分かり、個人的にはただの暗君ではないと感じます。

将棋ばかりが強調される家治ですが、それは返って政権運営が安定していた(ただ、田沼意次が進めた重商主義などによりプラス面とマイナス面はあったようです)ことの裏返しなのではないでしょうか。家治の評価がイマイチ高くないのは、唯一の息子である家基(側室の子)が成人前に夭折するという不運がありましたが、吉宗から続いた直系男系を三代で途絶えさせてしまったことが影響しているでしょう。正室を愛しすぎたという美談が返ってこういった結果を招くとは皮肉なものですね。

この後、傍系である一橋家の家斉(家治のいとこの子:吉宗のひ孫)が十一代目となるわけですが、歴史上よくあるケースとして王朝が変われば(この場合血統が交代する)、現王朝の正当性は強調するため前王朝をこき下ろすということがよく見受けられます。

特徴やエピソード

  • 幼名は初代家康と同じ竹千代
  • 祖父吉宗から英才教育を受ける
  • 正室との間に二子(いずれも女子)をもうけたが、かなり珍しい
  • 結局側室との間に男子(家基)ができるが18歳で夭折(暗殺説あり)
  • 将棋が趣味で七段の段位を与えられているが、実際は周りが手加減をしてアマの高段位クラスだった

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 十一代 徳川家斉(とくがわ いえなり)

在位:1787年~1837年(50年) 享年:69歳(1773年-1841年)
父:徳川治斉(一橋徳川家の二代当主で吉宗の孫)

十代目の家治には一人だけ清水家に養子に出されていた重好という弟がいたようで、家基の夭折後は次期将軍といった声もあったようですが、病弱であり子もなく、すでに若年とは言えなかったため、この家斉が15歳で将軍位につくことになりました。

家治と重好との兄弟仲は決して悪くなかったようですが、家治が亡くなる7年前には家斉は家治の養子になっていますので、当代が存命中のうちに後継ぎ問題は解決はしていようです。

さてこの家斉ですが、吉宗の四男一橋徳川家の宗尹(むねただ)の孫にあたります。当時徳川家には当時御三家の他にそれに準ずる田安家、一橋家、清水家の御三卿というものが存在していたようですが、いずれも吉宗の男子たちによって創設されており、後嗣問題があった時にこの中から将軍を選ぶなどといった役割があったようです。今回はまさしく有事であり、家斉が将軍家をつくことになりました。

家治が死去し吉宗のひ孫にあたる家斉が将軍職についたあと、まず家治政権下で長く辣腕を振るった田沼意次の排除を行います。この家斉の将軍への就任はいわば政権交代なので、これは当然のことでしょう。併せて歴史の教科書にも出てくる寛政の改革で有名な松平定信(実はこの人も吉宗の孫で御三卿田安家の七男で将軍候補でもあった)が御三家などの推挙もあって首席老中に就任しますが、家治時代には田沼意次など家治麾下の家臣に政治の手中を握られていたため、御三卿や御三家の権力復活などの狙いもあったようです。それほど田沼意次が幕府の中枢を握っており恨みを買っていたということです。

松平定信は田沼意次が行った重商主義のような政策に対して、真逆の緊縮財政や重商政策が生み出した負の面の賄賂の横行の排除など、財政の襟を正すような寛政の改革を行います。なんか江戸時代はいつも財政改革と言っているような気がします(笑)が、しかしながらこの定信はたった六年で失脚しています(教科書ではそこは教えられなったような気が・・・)。田沼意次時代は開発や商業政策により賄賂が横行してたと言われていますが、こちらが攻めの政策だとすると、松平定信は賄賂の禁止や徹底的な節約など締め付けの守りの政策だったので不満も大きかったのでしょう。確かに賄賂はいけませんが、このあたりは現代の政治にも通じるヒントがあるかもしれません。

この家斉は将軍在位としては最長の50年という長きにわたって政治を行います。晩年には天保の改革で有名な水野忠邦も老中に取り立てて後世に知られているように、目立つのは配下の名前と改革ばかりで、八代目の吉宗までは将軍の権威を見て取ることができましたが、九代目の家重以降は完全に将軍はお飾りで官僚政治となっていたことがよく分かります。

日本史は中学生に習ったきりですが、言葉の上っ面だけ捉えるとこの時代の寛政の改革や、この後の天保の改革でなにか政治がよくなったというような印象を受けていましたが、その実は政治がよく機能していなかったから様々な改革が行われていたということが、改めて調べると実感します。

実際のところ家斉が退位したあとたったの30年で江戸幕府が滅亡してしまうことを考えると、中興の祖であった曾祖父の吉宗に対して、この家斉が江戸幕府滅亡の土台を作ってしまったという印象を受けますね。やはりこの五十年という在位期間は少し長すぎたのかもしれません。

最後に家斉最大の特徴は分かっているだけで側室16人がおり、男子26名女子27名を設けたこと(ただし成人まで存命だったのは28名)ですが、これは精力絶倫というよりもこの徳川将軍の歴史を振り返ると、これから一橋徳川家の時代を作るためには納得してしまいます。それより設けた子供うち半分しか成人しないとは江戸時代の平均寿命恐るべしですね。

特徴とエピソード

  • 15歳で先代の急死にともない将軍位につく
  • 分かっているだけで53人の子供を作った
  • 先代の家治の血の長男家基が18歳で急死しているが、命日には毎年家斉本人や家臣が代理で墓参りをしていたり、家基の生母の没後三十年に従三位を叙位しているなど、おかしな点が多く、家治の父治斉の家基暗殺説が疑われている
  • 田沼意次を罷免して松平定信を起用して寛政の改革を行うが、結局六年で罷免している
  • 存命中に隠居して大御所となっている

十二代 徳川家慶(とくがわ いえよし)

在位:1837年~1853年(16年2か月) 享年:61歳(1793年-1853年)
父:徳川家斉(十一代将軍)

家斉の次男で(長男が早世していたため実質的な長子)45歳の時に将軍職に就任していますが、先代の家斉が存命で大御所として君臨したため、しばらくは二元政治となります。すでに老中であった水野忠邦によるいわゆる天保の改革を行いますが、寛政の改革と同様締め付けの改革だったためか支持を得られず数年で頓挫します。

またこの時代の出来事として、1839年に高野長英や渡辺崋山などの蘭学者などを取り締まるいわゆる蛮社の獄が行われ、言論統制が行われ始めます。すでにこの頃から鎖国体制がほころび始めていたのかもしれませんね。

そしてこの蛮社の獄から14年後の1853年ついにあの黒船が来航します。家慶も黒船来航の数か月後に亡くなります。

特徴とエピソード

  • 黒船が来航した時の将軍
  • 先代が大御所として君臨していたため存在感はゼロで実権がなかった可哀そうな将軍
  • 熱中症で死亡
  • 父家定と同じくたくさん(27人)の子供を作ったが一人しか成人しなかった

十三代 徳川家定(とくがわ いえさだ)

在位:1853年~1858年(4年8か月) 享年:35歳(1824年-1858年)
父:徳川家慶(十二代将軍)

家慶の四男でありながら将軍となっています。

ここで興味深いのが父家慶はその父家斉と同様14男13女といった多数の子供を設けていますが、成人まで存命だったのはこの家定ただ一人だったということです。そしてこの家定も病弱であったそうなんですが(さすがにこの辺りは何だかキナ臭い)が、家定の父の家慶はこの家定が器量不足ということで自分たちの元々のルーツの一橋家から一橋慶喜(のちの十五代徳川慶喜)を迎え入れることも検討していますが老中阿部正弘に反対されています。

さて父の家慶が黒船来航という大変な時期に急死してしまい、まさに大混乱な時期に19歳で跡を継いでしまった家定さんですが、なんと就任直後に体調を崩して廃人同様になってしまったそうです。(えー)

現代の感覚からすればある日突然巨大宇宙船で宇宙人がやってきたぐらいのことなのに、トップがこれでは終わりですね。家定が体調を崩した時点で後継ぎがいなかったため黒船来航という問題を抱えながら後継ぎ問題も幕府内で抱え込むことになります。

そしてこの家定と言えばやはりドラマなど人気の篤姫のダンナさんということでしょうね。篤姫は幕末の主要人物の一人ですので、家定本人としては名前は残せなかったものの彼女のおかげで何とか存在感を保つことに成功しています。

ただ、何か特別なことをしたという記録もないまま元々病弱なこともあってか35歳の若さで亡くなっています。

特徴とエピソード

  • 元々病弱だった上に将軍就任時にさらに体調を崩している
  • お菓子作りが趣味だったと言われているが、毒殺を恐れていたからと言われている
  • 子は出来たことがあるがいずれも早世している
  • 篤姫のダンナさん(正室だが継室:前の二人がいずれも死去したため三人目の正室)

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十四代 徳川家茂(とくがわ いえもち)

在位:1858年~1866年(7年9か月) 享年:21歳(1846年-1866年)
父:徳川斉順(紀州藩主で十一代家慶の弟)

十二代家慶の子供で存命であったのは十三代家定だけでしたので当然この系統は断絶です。となると家慶の沢山いる兄弟から人間を引っ張ってくるしかありません。ただそもそもその父の家斉が五十年も将軍をやっていたので兄弟は高齢ばかりなので、候補はその子供たち、つまりは家定のいとこと達がその候補となってきます。

そこで十四代将軍となったのが、先代家定から血統的に最も近い、紀州藩を継いでいた十一代家斉の七男徳川斉順(なりよし)の長男家茂となります。この時若干13歳です。後継には先々代も押していた慶喜もライバルとしていました、あの安政の大獄で有名な井伊直弼が後押ししたことによって家茂が将軍となったようです。

ただ、この家定まだ当然若年だったため指導力や政治力を発揮するのは側近頼みです。しかも世間は黒船問題で開国派と攘夷派、幕府としての権力も落ちているので幕府はと尊皇派にも分かれてがバチバチやっている状態です。この家茂は当時の孝明天皇の妹と結婚して政権運営を安定させるための公武合体を行いましたが、21歳で若くして病に倒れています。

特徴とエピソード

  • 甘いもの好きで虫歯だらけだった
  • 幕臣勝海舟によると病弱ではあったが聡明な将軍だった
  • 桜田門外の変(1860年に井伊直弼が暗殺される事件)が起こった時の将軍

十五代 徳川慶喜

在位:1867年~1868年(1年) 享年77歳(1837年-1913年)
父:徳川斉昭(水戸藩藩主、家光や吉宗と直系での血のつながりがない)

徳川慶喜は最後の将軍や大政奉還なんかで出てくるので有名ですね。在位期間までご存知ない方も多いとは思いますがたったの一年です。この人関連の出来事についてはドラマや小説などでもよく登場するので敢えて書きませんが、個人的疑問に思うこととしてなぜ将軍になれたかということですね。

確かに徳川第三王朝ともいえる十一代家斉から台頭する一橋家なのですが、この慶喜は水戸藩出身で、歴代の将軍との血縁関係からするとその血縁は初代家康まで遡らなくてはいけなくなります。聡明で利発だったということもあるでしょうが、十二代の家慶が押していたという理由があったにしろ少し腑に落ちないのは僕だけでしょうか。

もしかしたら公式発表はそうでも誰かの落胤というのが正解なのでしょうか。

特徴とエピソード

  • 1年しか将軍をやっていない

まとめ

以上徳川将軍家のことはあまりクローズアップしたことなく、個人的な趣味で調べてみましたが、色々経歴を見ていくと将軍は大奥があるので側室が沢山いて、後継ぎもたくさんいるというイメージでしたが、思いのほか男子が亡く断絶してますね。

将軍の力も吉宗以後は弱まっている印象を受け側近政治が進んでいくのがよく分かりましたし、これで江戸時代の知識はバッチリです(どこで使う?w)

いやーしかし疲れた(笑)

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