改めて江戸幕府の徳川将軍十五人調べてみた(前編)

徳川家康

江戸幕府の将軍と言えば十五人いることは、まともに生活していれば中学生でも答えられることだと思いますが、果たして皆さん全員の名前は言えますか?そしてどんな将軍だったか知っていますか?今回はそんな知りそうで知らない、徳川将軍家の十五人を振り返ってみることにしました。

ちなみに僕は初代家康から綱吉までの五代、八代の吉宗、十四代家茂と最後の十五代慶喜まではスラスラと出ますが、あとは名前は出てくるもののどの順番かはかなり怪しいです。まぁ、世間一般の方は僕と同じぐらいの知識だと思いますが、よく知らない将軍はいつものようにWikipediaなどで調べてみました。


初代 徳川家康

在位:1603年~1605年(2年2か月) 享年:75歳(1616年没)

ご存知東照大権現。偉大なる初代徳川家康です。有名過ぎるので敢えて説明はしませんが、在位2年2か月というのは意外でしたね。家督はかなり早い段階で譲っていたはずですが、この人の偉かったところは早い段階で息子の秀忠に将軍の位を譲ったことでしょう。

これにより将軍の位は徳川家が世襲していくという強力なアナウンスになりました。

二代 徳川秀忠

在位:1605年~1623年(18年3か月) 享年:54歳(1632年没)

江戸幕府も始まったばかりの時期なので一応名前は知られていますね。ご存知ない方もいるかもしれないので補足しておきますと、秀忠は家康の三男でありながら将軍になっています。当時はまだ嫡男が家督を継ぐ風習が定着していたわけでなく、母親の出自も重要だったと言われいますし、長男でかなり有能で将来有望だと言われていた信康が、武田家との内通を疑われ、かなり早い時期に家康に切腹を命じられ亡くなっていたことや、次男の結城秀康が豊臣秀吉への養子として出されていたり結城家を継いでいたことが幸いしましたね。

小説やマンガの影武者徳川家康なんかでは、家康と対立していたと言われていますが、どうなんでしょう。二代目にと目をかけていたので特別厳しかったのかもしれませんね。

三代 徳川家光

在位:1623年~1651年(27年9か月) 享年:48歳(1651年没)

秀康の次男(実際は長男が早世していたので事実上は長男)であり母はあの江姫(浅井三姉妹の一人:信長の姪)ということで有名ですね。wikipediaによると正室の子であり将軍となったのは家康と家光、慶喜だけだそうです。

父親の秀忠が存命中は二元体制となっていましたが、キリシタンの弾圧や鎖国状態の完成がこの家光の時代に完成されているので、これから続く江戸幕府の礎を固めた彼の功績は大きかったでしょう。

病弱で吃音もあったと言われますが、在位中は伊達政宗や立花宗茂などの話を聞くのがお気に入りだったようで、戦国時代の混乱期への憧れなども強かったのでしょう。祖父の家康も崇拝していたのは有名ですね。

家康、秀忠は将軍の位を存命中に譲っていますが、この家光以降は生前の委譲は行われていません。

四代 徳川家綱

在位:1651年~1680年(28年9か月) 享年:40歳(1680年没)

家光の側室の子ですが長男です。この人の特徴は10歳で将軍になっていることなんですが、家光の遺臣たちの手助けもあり、由井正雪などの討幕の動きが一部あったものの、政権は安定して維持されたようです。この治世で特徴的なのは幕府の安定のために不安要素を取り去るために外様大名の力を徹底的に削いでいった武断政治から、文治政治にシフトしているところですね。殉死禁止令などもこの時期に発令されたようです。

家綱は生まれてすぐに脳膜炎を患ったようで脳に障害があったのではないかと言われていますね。恐らく在位期間の長さなどを考えると判断能力はハッキリしていたはずですが、身体的に病弱だったのでしょう。男子がいなかったために、直系はこの人の代で断絶しているのも大きな特徴です。(子供がいなかった?)

上の内容を総合するともしかしたら、この時代から将軍は物事の決定だけを下す役目となり、老中たちの力が強くなっているかもしれませんね。

五代 徳川綱吉

在位:1680年~1709年(28年5か月)享年:64歳(1709年没)

はいお犬様ですね。先代の家綱に男子がいなかったので、家綱の弟であった綱吉が将軍家を継ぐことになります(綱重という兄がいましたが家綱が亡くなった時にはすでに彼も亡くなっていましす)。

この人の場合、生類憐みの令が有名ですが、特徴としては家綱時代に失われた将軍の威厳を取り戻すために、将軍としての強権を発動したことでしょうか。この時代に起こった「赤穂浪士」の事件も綱吉の判断により主君浅野内匠頭の切腹が即日行われたようです。トップダウンなので早いですね。

また綱吉は長男でなかったこともあり父家光に徹底的に儒学を叩きこまれており、「生類憐みの令」などのヘンテコリンな悪政を敷いた半面、儒学の発展には寄与したようで、そのおかげで新井白石などの逸物を生み出すきっかけにもなっており、かなり評価が分かれるのも納得の将軍ですね。

こういったドラスティックな変革を行うパターンとして考えられるのは、家綱時代の政治体制がかなり歪んでいて、新たにトップに立つことにより気合が入り過ぎた可能性が考えられれますね。こうして将軍を一人一人振り返っていくとなんとなく綱吉の政策も分かるような気がしてきます。



六代 徳川家宣

在位:1709年~1712年(3年5か月) 享年:51歳(1712年没)

印象に残る五代目の綱吉と八代目の吉宗に挟まれているので、個人的にこのあたりはかなり記憶が怪しいですね。

四代家綱の後を弟の綱吉次いで五代目の将軍になりましたが、その綱吉も男子に恵まれなかったため(一応男子は生まれましたが五歳で早世しています)、五代目の時に候補に挙がった綱吉の兄綱重の息子(三代家光の孫)がこの家宣になります。

女中に産ませた子供だったりしたせいか、一旦養子にだされていますが、綱吉の治世も長かったですし、本人も周りもまさか将軍につくとは予想していなかったでしょうね。48歳で将軍になっていますし、経歴からすると意外と庶民派なのかもしれません。エピソードなどを辿っていくと将軍就任時に賄賂のようなものを拒否したり、身分の高くなかった新井白石などを人材登用するなど、できる将軍様のイメージですね、知らんかった(笑)。

在位期間は短かったのですが、「生類憐みの令」の廃止や朱子学者新井白石の重用、酒税の廃止や正徳金銀の流通をさせるなど財政改革が目立ちます。五代目の暴走の立て直しが家宣の仕事だったかもしれません。

七代 家継

在位:1713年~1715年(3年1か月) 享年:8歳(1715年没)

家宣死亡時に唯一存命だった男子です。なぜ印象にないのかと思ったら、3歳で即位し7歳が来る前に亡くなっていますね。どおりで印象にないわけです。だからこの時代新井白石などの名前がクローズアップされているわけですが、この家継が幼年であったことや元々身分の高くなかった新井白石たち家宣の遺臣たちは、幕府中枢部の既存勢力とは折り合いが悪かったようです。家宣という後ろ盾がなければ、当然そうなりますよね。

で、ここで問題なのが徳川男系の断絶。この家継で将軍の直系男子の系譜が一旦切れてしまっています。三代家光は側室を含めて奥さんが少なくとも十人はいたようですが、男子が五人しか誕生しておらず、二人は早世しており実質三人しか後継ぎがいなかったことになります。

その三人が家綱、綱吉、綱重(家宣の父で家継の祖父)だったわけですが、家継も死去してしまった時点では実は家宣の弟(つまり家継の叔父)の松平清武が存命中だったようですが、すでに高齢であったことや出自が将軍としてふさわしくないとの理由で、女系の中から八代目の吉宗が将軍についたという流れのようです。

ちなみに松平清武の唯一の男子も家継死亡時にはすでに亡くなっており、彼の死をもって家光の男系は完全に断絶してしまっています。家光から数えて三代で断絶しているわけですが、これがもう少し早ければ家光の兄弟の中から将軍を選ぶということが可能だったでしょうが、すでに江戸幕府開始から100年近く経ってしまっており、その統治体制などが確立してしまっていたことがアダとなりましたね。

家柄を気にする当時からしても幼少の家継が将軍の位を継いだ時点でかなり幕府中枢は焦っていたのは間違いないでしょう。吉宗の暗躍説もまことしやかに囁かれていますが、この家光の系譜の断絶は教科書には出てこないものの、江戸幕府内では大事件ではありますね。

(つづく)